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    2009/11/22 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#12~信仰の競走
    ヘブル書12章
    一、
     ヘブル書12章は、信仰の競走について語っていることで有名な章です。しかしここで競走とは、何かの優劣を争うことではありません。主に与えられた道のりを全うすること、信仰を保ち続けること、それだけです。
     
    二、
     まず初めに、多くの証人たちが天で私たちが信仰の道のりを完走することを待っていることが語られます(1-2節)。私たちの信仰の歩みは、確かに競走に似たところがあります。そしてその走りを全うするために必要なことは、ただイエス様への信仰です。
    1. そのために主の訓練を受け入れることが勧められます(3-7節)。クリスチャン生活がただ楽しいことだけ、簡単なことだけと考えるのは、正しい考えではありません。主は試練を通して私たちを訓練されることがあります(9-10節)。それは私たちの成長のためです(詩篇119:71)。
    2. 神様の取り扱いは、時には喜ばしく思われないことかもしれません(11節)。しかしそれは、主のご計画の中では必ず益とされることなのです(ローマ8:28)。その中で私たちは成長し、私たちに続く人々を励ますことができます(12-13節)。
    3. さらにヘブル書の著者は、平和ときよめられることを求めること(14節)、また妥協したり、堕落してはいけないこと(15-16節)を語ります。私たちが近づいているのは裁きの御座ではなく、天での祝会ですが(22-24節)、しかし私たちはそれゆえいっそう主の前におそれかしこむ心をもって、信仰の歩みを全うすることが求められているのです。確かに主は全てを焼き尽くす方であり(29節)、侮られる方ではありません。
     
    三、
     私たちは信仰の競走を走り通すこと、そのための鍵がイエス様であることを今ひとたび覚えたいと思います。神様が試練をお与えになるとき、脱出の道も備えてくださっています。その中で私たちは主の似姿へと変えられていきますから、しっかりと信仰を強くもって、与えられた競走を全うしていきましょう。

    2009/11/15 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#11b~信仰列伝・後半
    ヘブル書11章17-40節
    一、
     今日はヘブル書の11章後半です。私たちは信仰の歩みの大切さ、そしてただそれだけが神様が求めておられるものであることを知ります。
     
    二、
     11章の後半は、アブラハムの試練から始まります(17節)。イサクを捧げることはアブラハムにとって大きな信仰のチャレンジでしたが、神様がなされるであろう御わざに信頼を置いたとき、彼はイサクを死者の中から取り戻しました(18-19節)。死と復活、それは聖書の原則です(ヨハネ12:24)。
     そして旧約における信仰の勇者たちの歩みが語られます。
    1. まずイサク、ヤコブ、ヨセフについて語られます(20-22節)。人間的な能力、基準、願望は、神様の御わざをなすことができません。ただ神様のご計画だけがなります。そしてそれは信仰によるのです。
    2. モーセの歩みについて語られます(23-29節)。モーセの選んだ苦しみが語られますが、それは彼が地上のことよりもさらに大きな事、天で受ける報いを見ていたからでした(26節)。地上での事は大切ではありますが、天でやがて受け継ぐべき事と比較するときに、地上で得ることも、失うことも、第一のことではないのです。
    3. さらに信仰の人々の歩みについて語られます。その中には、士師や王たちのように華やかな活躍をした人々もいます(32-34節)。また預言者たちのように迫害され、苦しめられた人々もいます(35-38節)。しかしこの世での華やかさが、神様の基準ではありません。神様の基準はただ信仰で、そしてその点において、彼らはみな信仰の勇者で、信仰の模範を私たちに示しているのです(39-40節)。
     
    三、
     私たちの歩みの鍵、それは信仰です。私たちの歩みにはそれぞれ違いがあるかもしれません。しかしただ信仰によって歩むとき、それこそが勝利の歩みであり、神様が求めておられる歩みなのです。主に信頼を置いて、主の助けを経験しつつ、力強く今週も歩んでいきましょう(詩篇118:5-7)。

    2009/11/8 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#11a~信仰列伝・前半
    ヘブル書11章1-16節
    一、
     今日はヘブル書の11章前半です。信仰列伝として有名な箇所ですが、確かに彼らは今でも多くのことを、私たちに語りかけているのです。
     
    二、
     11章はまず、「信仰は望んでいる事柄を保証し」という有名な御言葉から始まります(1節)。私たちは救いの確信を投げ捨ててはいけません。しっかりと信仰を保つときに、主の恵みはいつも豊かにあるのです(詩篇32:10)。
    1. 昔の人々が称賛されたのは、行い(律法)によるものではなく、信仰によるものでした(2-3節)。救いの原則は、いつの時代でも、どこでも、ただ信仰によるのです。信仰がなくては、神様に喜ばれることはできません(6節)。その時に、神様と私たちとの関係は深められていくのです。
    2. アベル、エノク、ノアに続いて、アブラハムの歩みが語られます(8-9節)。どこに行くか分からないで歩み出したアブラハムの心中は、あるいは不安であったかもしれません。しかし彼は歩み出すという決断をしました。それが彼を「信仰の父」と呼ばれる者にしたのです。彼は自分の目的地を地上ではなくて天に定めていました(10節)。私たちは自分の宝を地上に置くのではなく(マタイ6:19-20)、神様が私たちの取り分であること(詩篇73:25-26)をもう一度しっかりと覚えるようにしましょう。
    3. アブラハムとサラの信仰から、多くの子孫が起こされました(11-12節)。私たちが次の世代に、周りに残すことができるもの、それは本物の信仰です。本物の信仰は、確かに周りを変えていく力があります。彼らのように、本当の目的地を知って、そこを目指す歩みは、素晴らしい証しなのです。
     
    三、
     そして本当の信仰の歩みは、本当の報い、神様が備えてくださっている報いにつながっています(14-16節)。私たちの信仰の歩みは、それだけの意味、価値があることなのです。私たちは地上にあっては旅人ですが、しかし主が共に歩み、励ましてくださっています。そのことに感謝して、今週もしっかりと、信仰の歩みを深めていきましょう。

    2009/11/1 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#10~手放してはならない確信
    ヘブル書10章
    一、
     今日はヘブル書の10章です。著者は私たちがしっかりと持つべき、そして保つべき確信について語ります。
     
    二、
     まず初めに、旧約の律法がイエス様の贖いの影にしか過ぎなかったこと、イエス様こそが救いの道であること(ヨハネ14:6)が、語られます(1-10節)。
    1. イエス様の御わざは完全なものです(11-18節)。イエス様は十字架で「完了した」と言われました(ヨハネ19:30)。私たちのいやし、解放、すべては十字架で既になされているのです(イザヤ53:4-5)。それゆえ私たちは大胆に神様の前に出ることができます(19-20節)。
    2. 次に真心から神様に近づくこと、しっかりと信仰を堅く保つこと、共に集まって信仰を励まし合うことが勧められます(22-25節)。全てが揺り動かされる時代、イエス様から目をそらさないことが私たちの信仰の歩みの秘訣です。嵐の中、イエス様に目をとめることでペテロはガリラヤ湖の上を歩きました(マタイ14:28-29)。また日曜礼拝を共に守ることは、単に神様に安息日を捧げること以上に、共に信仰を励まし合う、共に信仰を建て上げていくという意味があります。主は私たちが共に歩むことを願っておられるのです。
    3. 最後に、信仰からそれることへの警告(26-31節)と共に、初心に立ち返ること(32-34節)、そして信仰を堅く保って主の報いにあずかることが勧められます(37-39節)。主にある信仰の確信、それは私たちが決して手放してはならないものなのです。
     
    三、
     ヘブル書の著者はこの章で、私たちが救いの確信を手放してはならないことを語ります。必要なのは忍耐であることが語られますが、それは主の報いにつながる忍耐、また主の御手の中で必ず終わりが来る忍耐です。そしてそこには、大きな価値があります。主にある確信を手放すことなく、むしろますますしっかりと握って、後ろに下がるのではなく前に向かって、歩んでいきましょう。

    2009/10/25 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#9~イエス様の完全な贖い
    ヘブル書9章
    一、
     今日はヘブル書の9章です。イエス様のただ一度の完全な贖いについて、著者は語ります。イエス様の贖いこそが真に完全なものであり、私たちにはそれだけで十分なのです。
     
    二、
     まず、旧約の律法の規定について、そして祭司たちの贖罪の規定について、著者は語ります(1-7節)。旧約の大祭司は罪の贖いをしましたが、それはあくまでもイエス様がまだ来られていないことを示す一時的なものにしか過ぎませんでした(8-10節)。
    1. しかし、イエス様が真の大祭司として来てくださいました(11-12節)。このイエス様の犠牲の血は、私たちの心を完全にきよめて神様に立ち返らせ、そして仕えさせるものです(13-14節)。
    2. イエス様の犠牲は完全なものです。それは私たちの状況、気分とは関係ありません。イエス様の犠牲によって神様が私たちを義とし(ローマ8:31-33)、それを信じるときに、光が私たちの内に輝くのです(ヨハネ1:5)。それゆえ私たちは主にある永遠の資産を受け継ぐ人々であることを、今ひとたび確認します(15節)。
    3. イエス様の犠牲は、遺言の執行にも例えることができます(16-22節)。それは神様の側からの一方的な恵みでした。そしてイエス様がその恵みの完成者、そして仲介者になってくださったのです(23-24節)。イエス様の御わざによって私たちの罪は完全にきよめられ(Ⅰヨハネ1:7)、神様の永遠にあって受け継ぐ栄光は、信じられないほどのものです(Ⅰペテロ1:6-7)。
     
    三、
     イエス様の贖いによって、私たちは完全な者とされています。地上での歩みの中ではさまざまなことがありますが、神様は善にして善をなされるお方、恵みに代えて恵みを与えてくださるお方です。このお方の贖いを、そして祝福を今ひとたび受け取って、信仰を強められて、今週も歩んでいきましょう。

    2009/10/18 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#8~新しい契約
    ヘブル書8章
    一、
     今日はヘブル書の8章です。イエス様の完全な大祭司職、そして古い契約にまさる新しい契約について、語り始められます。
     
    二、
     私たちの大祭司はイエス様です。それは人手による制度ではなくて、それこそが神様のご計画であり、成就なさったことでした(1節)。当時はモーセの律法にもとづいて大祭司が務めをしていましたが、それはイエス様の影にしか過ぎなかったのです(4-5節)。
    1. イエス様こそが真の大祭司、神と人との間の仲介者なるお方です(6節)。そしてこのお方によって、私たちは私たちの思いをこえるほどの祝福をいただきます(エペソ1:17-19)。
    2. 初めの契約(モーセ律法)は、新しい契約の予表にしか過ぎず、不完全なものでした(7-9節)。さまざまな律法はただ私たちの罪を教えるだけで、そのことによって私たちは罪を示されますが、救いを得ることにはつながらないのです。
    3. 救いの本質は行いではなく信仰です。すなわち私たちの心が作りかえられることです(10節)。それは人間的な道徳や倫理、修行や精進ではなく、聖霊様による刷新、十字架による救いです。そしてその救いを私たちは信仰によって受け取り、古い人を刷新することによって保ち続けるのです(ローマ12:2)。その時、私たちはもはや人手を介してではなく、直接に神様を知り、経験するのです(11節)。
     
    三、
     私たちはイエス様を通して新しい契約を与えられました。もはや古い契約は必要ありません(12節)。イエス様の救いこそが全ての過去を清算し、刷新し、新しい出発を与えるものです(Ⅱコリント5:17)。それは何一つ私たちの側の行い、立派さによるものではなく、ただ神様の恵みです。それゆえ私たちはただ感謝を捧げるのです。イエス様の内にとどまって、全ての良いものをしっかりと受け取って、今週も力強く歩んでいきましょう。

    2009/10/11 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#7~メルキゼデクの祭司職
    ヘブル書7章
    一、
     今日はヘブル書の7章です。イエス様こそが完全な大祭司であること、このお方によって、私たちは律法による不完全な救いに代えて、信仰による完全な救いを与えられたのです。
     
    二、
     ヘブル書の著者は7章で、創世記の祭司メルキゼデクとアブラハムの物語から語り始めます。
    1. イスラエルの先祖であったアブラハムは、サレム(後のエルサレム)の王であった祭司メルキゼデクから祝福を受けました。霊的な意味では、メルキゼデクはイエス様の大祭司職の型です(詩篇110:1-4)。そしてアブラハムがメルキゼデクに献げ物をし、祝福を受けたことは、レビ族の祭司職が一時的なものであること(Ⅰペテロ2:9)、イエス様の大祭司職こそが真の大祭司職であることを予表していたのです(4-10節)。
    2. イエス様がメルキゼデクにならって大祭司の職に就かれたことは、祭司職とセットとなる律法も変更されたことを意味します(11-13節)。すなわちモーセの律法はもはや効力をもたないのです。今や人手によらない、主による救いによって私たちは神様に近づくことを許されているのです(17-22節)。
    3. 今や私たちの大祭司であるイエス様は、不完全だったレビ系の祭司たちとは異なって、完全な罪の赦しと救い(Ⅰヨハネ1:7)を私たちに与えてくださいます(24-27節)。このお方こそが私たちのために立てられた大祭司です。私たちはただ信仰によってその救いを受け取るだけで、追加しての何かは必要ないのです。そしてそれこそが神様のご計画でした(28節)。
     
    三、
     ヘブル書の著者は、イエス様の救いのご計画、完全性を旧約の祭司職と比較して語ります。イエス様の御わざは、それだけで完全なものです。私たちは信仰でそれを受け取るだけです。ですからしっかりと十字架の救いをいただいて、それを手放すことのないようにしましょう。そこに私たちの全てがあるのです。

    2009/10/4 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#6~警告と励まし
    ヘブル書6章
    一、
     今日はヘブル書の6章です。ヘブル書の著者はここで私たちに信仰の警告と励ましを語ります。
     
    二、
     まず初めに、基礎的な教理にとどまらないことが勧められます(1-3節)。信仰が弱ってしまうことがあるとしても、必要なことは主を見上げて前に進むことです。私たちの救いを開始し、継続し、建て上げていくのは、ただ主への信仰によります。そして以下の事柄が語られます。
    1. まず背教の危険性に対して、厳しい警告が語られます(4-8節)。しかしそれは、私たちが信仰から簡単に脱落してしまうからではありません。むしろ聖書は真に救いをいただいた私たちがもはや罪の中にとどまることができないことを語ります(Ⅰヨハネ3:9)。ただ私たちは、信仰から逸れたときに、弁解するのではなく、自己憐憫に浸るのではなく、悔い改めること(Ⅰヨハネ1:7)を、今ひとたび確認するのです。
    2. そして背教への警告以上に、私たちの上にある神様の素晴らしい計画と、その計画への確信が語られます(9-12節)。私たちの信仰には浮き沈みがあるかもしれませんが、しかしただ主を見上げて歩むこと、主が私たちを守っておられることへの信頼を保ち続けること、それが大切です。そしてただ主を見上げて歩み続けるのです(ピリピ3:12-14)。
    3. 最後に、主がご自分をさして誓い、私たちへの約束の保証をされたこと、そしてこのことがどれほどまでに大きな事で、私たちへの保証であるかということが語られます(13-19節)。主の約束はただ真実です。それは私たちにとって、大きな慰めであり、安心です。
     
    三、
     私たちは主の真実を知るときに、もはや世の荒波に吹き回されることはなく、しっかりと歩むことができます。それは時に忍耐を要求することかもしれませんが、しかしそれだけの価値があることなのです(Ⅱテモテ2:10-13)。主の真実に慰めと安心をいただいて、信仰の歩みを続けていきましょう。

    2009/9/27 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#5~信仰の従順
    ヘブル書5章
    一、
     今日はヘブル書の5章です。ここで著者はイエス様が示された従順について語ります。それは私たちの信仰への模範なのです。
     
    二、
     旧約時代、イスラエルは神の民とされていましたが、なお神様との間の仲介者として大祭司が立てられていました。しかしこの大祭司は、やがて来られるお方の影にしか過ぎませんでした。人の大祭司は、人々のためだけでなく、自分のためにもなお、罪のささげ物をしなければならなかったのです(3節)。
    1. しかし今や、神の御子なるイエス様がまことの大祭司として来てくださいました。それは私たちの模範のためでもあります。イエス様はまず敬虔という模範を、私たちのために示してくださいました(7節)。
    2. イエス様は次に、従順という模範を私たちに示してくださいました(8-10節)。私たちの救いが信仰によった以上、私たちの行いの基準もまた信仰によります。そしてそこで問題となるのは私たちの動機、そして神様への従順です(ローマ14:22-23)。イエス様はこの点においても、神の御子なる方であったにもかかわらず、私たちへの完全な模範を示してくださいました。確かに私たちがいつも主を見上げているときに、私たちは主と同じ姿に変えられていくのです(Ⅱコリント3:16-18)。
    3. さらに著者は、信仰の成長について私たちが達すべき目標について語ります(13-14節)。私たちは信仰の歩みの中で、感覚もまた訓練される必要があります。神様への従順、そしてそこからいただくことのできる平安(ヨハネ14:27)を、私たちは大切にしていく必要があります。
     
    三、
     イエス様の従順、それは私たちの信仰の模範です。神様への信仰は従順という形を取って表れるべきものです。イエス様が十字架の死に至るまでの従順という模範を示されました。ですから私たちもまた、神様への信頼と同時に、従順も学んでいきましょう。信仰の鍵はイエス様です(Ⅱテモテ2:8-10)。いつもイエス様を見上げて、信仰の従順を全うしていきましょう。

    2009/9/20 敬老祝福礼拝メッセージ

    私たちを背負ってくださるお方
    イザヤ書46章
    一、
     今日は敬老祝福礼拝です。私たちの主は永遠の昔から私たちを選び、そしてご自分の真実をいつまでも、-私たちが老いたときでさえ-、尽くしてくださるお方です。
     
    二、
     イザヤ書46章で神様は、バビロンの偶像が倒される日が来ることをお語りになりました。世の偶像は空しいものです。ただ私たちの神様こそがまことの神様で、そして真実なお方です。
    1. 世の中には多くの偶像、神々が存在しますが、ひとつとして私たちの主と同じ神は存在しません(1-2節)。偶像とはあくまでも、私たちが作り上げるものにしか過ぎないのです(Ⅰコリント8:4-6)。
    2. かえって主は私たちに、私たちが永遠の昔から選ばれており、神様のご計画の中に置かれていたことをお語りになります(3節)。私たちの歩みの中で多くの不思議がありましたが、それは決して偶然ではなく、神様のご計画でした(エペソ1:4-5)。そこにはただ主の真実があったのです(Ⅱコリント1:19-20)。
    3. そして神様は私たちに、私たちが地上の歩みを終えるその時まで、私たちを背負い、運んでくださることをお語りになります(4節)。世の偶像はどれほど魅惑的に見えるとしても、何の力もありません(5-7節)。しかし私たちの神様は全能なるお方で、私たちの上に置いてくださっているご計画を必ず成就してくださいます。それゆえ私たちは、たとえ火の中、水の中を通されることがあるときでさえ、それらによって倒れることはありません(イザヤ43:1-2)。
     
    三、
     主の真実の中を歩んでこられた方を見るとき、私たちはその歩みに敬意を表すと同時に、主が私たちに真実を尽くしてくださることを知り、励まされます。主の真実を日々経験して、私たちも信仰の先輩にならう者とされていきましょう。主は私たちを「白髪になっても」なお背負ってくださるのです。

    2009/9/13 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#4~信仰の鍵
    ヘブル書4章
    一、
     今日はヘブル書の4章です。不信仰になってはいけないこと、そのために心を頑なにしてはならないこと、しかしそれは律法ではなく、ただ大祭司なるイエス様に信頼を置くことであることが、語られます。
     
    二、
     ヘブル書の著者は4章でまず、神様を恐れることについて語ります(1節)。確かに私たちは思い違いをしてはいけません(ガラテヤ6:7-8)。そのためにはいつも御言葉を信仰によって聞くことが大切です(2節)。そして以下のことが語られます。
    1. 信じる私たちは神様の安息をいただきます(3-4節)。安息とは私たちが作るものではなく、イエス様からいただくものです(ヨハネ14:27)。神様が私たちの保証でいてくださいます(イザヤ46:3-4)。その時、確かな平安が私たちの内にあるのです。
    2. また、心を頑なにしてはならないことが警告されます(5-7節)。御言葉をいただくときに、私たちの心は「堅い地」ではなく「良い地」でなければなりません。その時に私たちは多くの実を結びます(マタイ13:23)。そのためにも、いつも御言葉によって自分の心を吟味すること(12節)、また私たちのする全てのことが神様の前に明らかにされていることを覚えること(13節)は、大切です。
    3. しかしこれらのことは、決して何かの戒律ではありません。律法によっては、私たちは義を獲得することはできません。私たちの大祭司であるイエス様を見上げ、このお方に信頼を置いて歩むことです(14-16節)。
     
    三、
     もし私たちの歩みが「~しなければならない」というものであったなら、それは私たちには不可能なことでした。しかしイエス様は私たちの弱さをご存じで、私たちを父なる神様の前で取りなし、そして私たちを励ましてくださいます。ですから私たちは大胆に主の前に出て、そして助けと恵みをいただきましょう。そしてますます、信仰を強められていきましょう。

    2009/9/6 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#3~不信仰への警告
    ヘブル書3章

    2009/8/23 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#2~私たちのために人となられた主
    ヘブル書2章
    一、
     今日はヘブル書の2章です。主が私たちのために苦しみを受けられたこと、そして主が今、私たちを苦しみの中にあっても助けて下さっていることを、ヘブル書の著者は語ります。
     
    二、
     まず初めに、最初に聞いたところにとどまることが勧められます(1節)。それは聖書に一貫するメッセージでもあります(エペソ4:14、Ⅰヨハネ2:24ほか)。ポイントはイエス様です。このお方にのみ、私たちの平安があるのです(マタイ11:28-30)。
    1. 私たちの聞いたことは、人手によることではなくて主が語り、示して下さったことでした(3b-4節)。ですから私たちは、福音に完全な信頼を置くことが出来るのです。
    2. イエス様の死、それは私たちのためでした(8b-9節)。福音の根幹はイエス様の死と復活です(Ⅰコリント15:3-5)。そしてそこから罪の赦し、永遠の命、失望に終わることのない希望、全ての良いことが流れ出てきます。人手による力が尽きたとき、そこに主のご計画があります(エレミヤ29:10-11)。十字架の死と復活はその型なのです。
    3. イエス様は私たちのところに来て下さり(ヨハネ1:14)、そして私たちと同じところを通って下さいました(14-16節)。そして今、私たちの大祭司として私たちを助け、励まして下さっています(17-18節)。それゆえ私たちはこのお方に完全な信頼を置くことができるのです。
     
    三、
     イエス様が私たちと同じところを通って下さったこと、そのことから私たちは、主に信頼して歩むときに、イエス様の足跡に真に従うことができることを知ります。また聖霊様がその歩みを助けて下さいます。イエス様は私たちの弱さをご存じです。そしてその上で勇敢であるように(ヨハネ16:33)と励ましておられます。主は私たちを決して見放されません(申命記31:6)。そこに私たちの確信と励ましをいただいて、歩み続けていきましょう。

    2009/8/16 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#1~イエス様について
    ヘブル書1章
    一、
     今日からヘブル人への手紙について見ていきましょう。信仰の困難に面している人々に書かれたこの手紙は、今を生きる私たちにも、励ましと慰めを語っているのです。
     
    二、
     ヘブル書の著者はまず御子イエス様について、旧約聖書の指し示していたのはこのお方であったことを語ります(1-2節)。確かに、新しい契約の光で旧約聖書を見るときに、私たちはそこに隠されていた意味を悟るのです。
    1. イエス様が天地万物を造り、保っておられます(3節)。全てはイエス様の主権の中で許されて起こることであり、裏を返して言えば、イエス様が私たちのためにとどめておられることは決して起こることはありません(マタイ10:29-31)。
    2. イエス様が真の主権者なるお方です(7-9節)。イエス様の裁きの座に全ての人は立たなければなりません(Ⅱコリント5:10)。しかし私たちにとってはそれは慰めであり、励ましです。なぜならイエス様の十字架の犠牲により、私たちは罪の裁きを受けることはないからです。
    3. イエス様こそがアルファでありオメガ(黙示録1:8)、永遠に変わることのないお方です(10-12節)。イエス様こそが王の王なるお方、主の主なるお方、そして驚くべきことに、それにもかかわらず私たちの友でいてくださるお方です(ヨハネ15:14-15)。
     
    三、
     ヘブル書の著者は、まず最初にイエス様について語りました。それはイエス様がどのようなお方かということが、私たちにとってまず最初に大切なことだからです。世のどこにも、誰にも無いこと、ただ私たちだけが持つことを許されているのが、私たちの救い主イエス様です。確かに私たちの信仰はすべてイエス様によるものであり(ガラテヤ2:20)、それゆえ私たちはこのお方に信頼を置いて歩むのです。イエス様に信頼して歩むときに、このお方の勝利と復活の命の力が働きます。イエス様に焦点を合わせて、日々歩んでいきましょう。

    2009/8/9 聖日礼拝メッセージ

    キリストにとどまる
    ヨハネ福音書15章4-5節
    一、
     私たちの信仰の要点は、イエス様です。聖書の教えは素晴らしいものですが、それもイエス様から切り離しては、存在し得ません。信仰生活とは教えを行うことではなく、実にイエス様への信頼なのです。
     
    二、
     クリスチャンであることは、ただイエス様に導かれて生きる、それだけです(ピリピ1:21)。逆にイエス様から外れて生きる、それが罪の本質です。
    1. 神様から離れて、神様以外のものを心に据えるとき、そこに満たしはなく、その偶像は必ず私たちを裏切ります(イザヤ44:9-11)。そうではなく、まことの神様、このお方だけが私たちの頼む岩です(イザヤ44:6-8)。
    2. 困難の中にあるとき、しかしイエス様に目を留めることが大切です。しかしそれは私たちがイエス様に必死でとどまらなければならない、そうしなければ私たちはイエス様から離れてしまう、というものではありません。驚くべきことに、私たちがイエス様にとどまろうとするときに、イエス様が私たちの内にとどまってくださるのです(ヨハネ15:4a)。それゆえ私たちは、ただ主のみもとにいること(ルカ10:41-42)、そこで平安をいただくこと(ヨハネ14:27)が大切なのです。
    3. 私たちが滅びることなくここまで生かされてきたのは、主の恵みでした(哀歌3:22-24)。そしてこのお方が私たちに計画をお持ちで(エレミヤ29:11)、それは空手形ではなくて主が成就させてくださることなのです(イザヤ55:10-11)。それゆえ私たちはイエス様の平安の中を、その平安に導かれて進むのです(コロサイ3:15-16)。
     
    三、
     一年もいよいよ後半に入っていく時期ですが、イエス様にとどまる、そのことをもう一度覚えたいと思います。ブドウの枝は木にとどまるときに枝を結びます。イエス様にとどまるとき、それはイエス様を追い求めるのではなくて、イエス様が私たちと共におられるのでそこにとどまるということですけれども、私たちは安息の中で多くの実を結ぶことができるのです(ヨハネ15:4-5)。

    2009/8/2 聖日礼拝メッセージ

    希望
    エレミヤ書29章10-11節
    一、
     私たちの神様は私たちに希望を与えてくださるお方です。しかしこの希望は、この世でいうところの願いや望みとは、少し異なったところがあります。
     
    二、
     神様はユダの民がバビロンに捕囚として捕らわれた時、目に見える状況の中に何の希望もないように思われる時に、回復のご計画、将来と希望を与える計画についてお語りになりました。
    1. 聖書が語る希望とは、単に何かを望むこと以上のものです。それは自我の願望を満たすために何かを願うことではなくて、イエス様に信頼を置いて、このお方が私たちのためにして下さることを、望みをもって待つことです(ローマ8:24-25)。
    2. 私たちが自我を満たそうとする願いを希望としていたとき、その希望は決して満たされることがありませんでした(箴言30:15-16)。否、その結末は死でした(ローマ6:20-21)。しかし試練の中を通されて、主を見上げ、主に信頼することを学ぶ中で、私たちは平安を得ました(ヘブル12:11)。試練の中でふるい落とされるべきものがふるい落とされる時、私たちは主への信頼をもう一度確立します(ヘブル12:26-27)。そしてそこにこそ、私たちは希望を置くことができるのです。
    3. 主への信頼、それこそが私たちが未だ見ていない希望を保証し、実体化します(ヘブル11:1)。それは主こそが真実なお方で(Ⅱテモテ2:13)、私たちが置く信頼に必ず応えて下さるからです。私たちの希望とは、信仰とは切り離せません。むしろ信仰こそが、私たちの希望となるのです。
     
    三、
     私たちは希望がないと語られる時代、失望の時代を生きています。しかし目に見える状況に失望させられることは、幸いな経験ですらあります。その時私たちは主だけが私たちの望みをかけるに足りるお方であることを知ります(マタイ12:17-21)。主こそが私たちの救いです(詩篇121:1-2)。そして私たちは主の力強い御手に信頼し、主の希望を仰ぎ見て歩むのです。

    2009/7/26 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#13~最後の勧告Ⅱ
    申命記30章
    一、
     さて、今日は出エジプトの物語の最後、モーセから民への勧めの後半の部分です。モーセは何を大切なこととして語るのでしょうか。
     
    二、
     モーセはまず、イスラエルの民がやがて神様に背くこと、そして裁きを招くこと、しかし神様があわれみによって彼らを悔い改めさせ、そして再び集めて下さることを語ります(1-3節)。
    1. モーセは主が彼らを連れ戻し、そして再び祝福を与えて下さることを語ります(4-5節)。神様はあわれみ深いお方で、私たちが風のようなものにしか過ぎないことをご存じです(詩篇78:38-39)。イエス様はそのような私たちの弱さをご存じで、それゆえに私たちのことをいつも取りなしてくださっているのです(ヘブル4:14-15)。
    2. そこで神様は私たちに新しい心を与えて下さいます(6節)。私たちが生きるのは、道徳や倫理や宗教によってではありません。ただ信仰によるのです(ローマ1:17)。その時主は私たちを敵からさえ守り(7節)、そして良いもので私たちを満たして下さいます(8-10節)。
    3. 私たちが神様を第一にするときに、神様は必ず良いもので満たして下さいますが(マタイ6:33)、ここで神様に従うことは、戒律や規則などの難しいことではありません。否、信仰の歩みとは、心に信じ口で言い表す、それだけのことです(ローマ10:8-9)。このお方に信頼して歩むときに、私たちは主が願っておられるところへと入っていくことができるのです。
     
    三、
     エジプトを出てから40年、主は真実なお方で、イスラエルをカナンの地まで導いて下さいました。40年間の荒野の歩みは過酷ですらありましたが、そこでイスラエルの肉の部分が削られた時に、神様の命、ご計画が解き放たれたのでした。私たちの歩みには報いがあります。ですから私たちの信仰を投げ出すことがないようにしましょう(ヘブル10:35-39)。かえって信仰を整えられて、主が与えようとしておられる地に共に入っていこうではありませんか。

    2009/7/19 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#12~最後の勧告Ⅰ
    申命記29章
    一、
     イスラエルのカナン入国を前にして、モーセは最後の勧めと戒めを語りました。それは私たちに対する勧めと戒め、また励ましでもあります。
     
    二、
     モーセはまず、イスラエルの民に神様がこの40年間にしてくださった大きな奇蹟の数々について語りました(2-4節)。しかしそれらのことによっては、民は信仰を持つことはできなかったのです。
    1. 私たちは見るところによって信仰を持つのではありません。見えないお方の真実に信頼を置き、そしてそのお方の真実を経験することによって(4-5節)信頼が強められていくのです。
      →それゆえ敵は、目に見えるもので私たちの焦点を神様からそらさせようとします(Ⅰヨハネ2:15-16)。注意が必要です。
    2. モーセはついで、救いの約束がまだここにいない人々にも開かれていることを語りました(10-15節)。
      →それはペンテコステの日にペテロが語ったことでもありました(使徒2:39)。それゆえ私たちは福音を語り続けるのです。
    3. モーセはさらに、心を吟味して、罪を生じさせる根がないかどうか、もしそれがあるならば取り除かなければならないことを語ります(16-18節)。また罪を絶対に避けなければならないことについて、厳しく警告します(19-20節)。
      →根は目に見えないものですが、これがある限り罪から解放されることはありません。それゆえ私たちは、心の一新によって変えられる必要があるのです(ローマ12:2)。
     
    三、
     私たちは全てを知ることが許されているわけではありませんが(29節)、しかしこれまで神様が現して下さった愛と恵みは、私たちを生かすにはあまりにも十分なものでした(イザヤ43:4, 7)。私たちの救いは主にあります(詩篇121:1-2)。私たちは主に信頼し続け、そして歩み続けるのです。

    2009/7/12 献堂30周年記念礼拝メッセージ

    キリストのみわざ
    ヘブル書1章1-4節
    森谷 勉師

    2009/7/5 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#11~カナン入国を前にしてⅠ
    申命記8章
    一、
     イスラエルはいよいよカナン入国を目前にして、カナンの東、モアブの地に宿営しました。そこでモーセは、もう一度民が守るべき戒めについて語り、そして彼らが持つべき心について教えました。
     
    二、
     モーセはまず民に、神様の命令を守ることを命じました。私たちは確かに神様に委ねられた使命を行っていく必要があります。そしてそこで、忘れてはならないことがあるのです。
    1. モーセは、かつてあった試練の日々を忘れないようにと命じました(2節)。
      →神様の試練は、私たちが神様の求めておられる基準に達しているかどうかを示すためのものです(詩篇119:71)。
    2. イスラエルの民に足りなかったもの、それは神様への本当の信頼でした(ヘブル3:17-19)。神様がシナイの40年間をイスラエルが通るようにされたのは、人が肉の糧ではなく、主の言葉によって生きることを彼らが悟るため(3節)、そのための訓練だったのです(5-6節)。
      →信仰こそが私たちを生かします。すなわち、私たちが求めるべきものはまず神様ご自身です。地上で必要な全てのことは、その時に添えて与えられるものです(マタイ6:32)。
    3. カナンの地に入るときに、主を忘れないように、富に仕えてしまうことがないように、モーセは繰り返し警告します(10-18節)。
      →神様は私たちを祝福して下さいますが、祝福が私たちの誇りや偶像になってしまってはいけません(マタイ6:24)。むしろそれを与えて下さったお方に感謝すべきなのです。
     
    三、
     神様は真実なお方で、イスラエルをカナンの地まで導いて下さいました。しかしカナンの地に入って行くにあたって彼らが決して忘れてはならないことがありました。それは神様への信頼、忠誠です。私たちも、ただ主だけを心に据えて、そして主の願っておられるところへと進んでいきましょう。