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    2009/9/20 敬老祝福礼拝メッセージ

    私たちを背負ってくださるお方
    イザヤ書46章
    一、
     今日は敬老祝福礼拝です。私たちの主は永遠の昔から私たちを選び、そしてご自分の真実をいつまでも、-私たちが老いたときでさえ-、尽くしてくださるお方です。
     
    二、
     イザヤ書46章で神様は、バビロンの偶像が倒される日が来ることをお語りになりました。世の偶像は空しいものです。ただ私たちの神様こそがまことの神様で、そして真実なお方です。
    1. 世の中には多くの偶像、神々が存在しますが、ひとつとして私たちの主と同じ神は存在しません(1-2節)。偶像とはあくまでも、私たちが作り上げるものにしか過ぎないのです(Ⅰコリント8:4-6)。
    2. かえって主は私たちに、私たちが永遠の昔から選ばれており、神様のご計画の中に置かれていたことをお語りになります(3節)。私たちの歩みの中で多くの不思議がありましたが、それは決して偶然ではなく、神様のご計画でした(エペソ1:4-5)。そこにはただ主の真実があったのです(Ⅱコリント1:19-20)。
    3. そして神様は私たちに、私たちが地上の歩みを終えるその時まで、私たちを背負い、運んでくださることをお語りになります(4節)。世の偶像はどれほど魅惑的に見えるとしても、何の力もありません(5-7節)。しかし私たちの神様は全能なるお方で、私たちの上に置いてくださっているご計画を必ず成就してくださいます。それゆえ私たちは、たとえ火の中、水の中を通されることがあるときでさえ、それらによって倒れることはありません(イザヤ43:1-2)。
     
    三、
     主の真実の中を歩んでこられた方を見るとき、私たちはその歩みに敬意を表すと同時に、主が私たちに真実を尽くしてくださることを知り、励まされます。主の真実を日々経験して、私たちも信仰の先輩にならう者とされていきましょう。主は私たちを「白髪になっても」なお背負ってくださるのです。

    2009/9/13 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#4~信仰の鍵
    ヘブル書4章
    一、
     今日はヘブル書の4章です。不信仰になってはいけないこと、そのために心を頑なにしてはならないこと、しかしそれは律法ではなく、ただ大祭司なるイエス様に信頼を置くことであることが、語られます。
     
    二、
     ヘブル書の著者は4章でまず、神様を恐れることについて語ります(1節)。確かに私たちは思い違いをしてはいけません(ガラテヤ6:7-8)。そのためにはいつも御言葉を信仰によって聞くことが大切です(2節)。そして以下のことが語られます。
    1. 信じる私たちは神様の安息をいただきます(3-4節)。安息とは私たちが作るものではなく、イエス様からいただくものです(ヨハネ14:27)。神様が私たちの保証でいてくださいます(イザヤ46:3-4)。その時、確かな平安が私たちの内にあるのです。
    2. また、心を頑なにしてはならないことが警告されます(5-7節)。御言葉をいただくときに、私たちの心は「堅い地」ではなく「良い地」でなければなりません。その時に私たちは多くの実を結びます(マタイ13:23)。そのためにも、いつも御言葉によって自分の心を吟味すること(12節)、また私たちのする全てのことが神様の前に明らかにされていることを覚えること(13節)は、大切です。
    3. しかしこれらのことは、決して何かの戒律ではありません。律法によっては、私たちは義を獲得することはできません。私たちの大祭司であるイエス様を見上げ、このお方に信頼を置いて歩むことです(14-16節)。
     
    三、
     もし私たちの歩みが「~しなければならない」というものであったなら、それは私たちには不可能なことでした。しかしイエス様は私たちの弱さをご存じで、私たちを父なる神様の前で取りなし、そして私たちを励ましてくださいます。ですから私たちは大胆に主の前に出て、そして助けと恵みをいただきましょう。そしてますます、信仰を強められていきましょう。

    2009/9/6 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#3~不信仰への警告
    ヘブル書3章

    2009/8/23 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#2~私たちのために人となられた主
    ヘブル書2章
    一、
     今日はヘブル書の2章です。主が私たちのために苦しみを受けられたこと、そして主が今、私たちを苦しみの中にあっても助けて下さっていることを、ヘブル書の著者は語ります。
     
    二、
     まず初めに、最初に聞いたところにとどまることが勧められます(1節)。それは聖書に一貫するメッセージでもあります(エペソ4:14、Ⅰヨハネ2:24ほか)。ポイントはイエス様です。このお方にのみ、私たちの平安があるのです(マタイ11:28-30)。
    1. 私たちの聞いたことは、人手によることではなくて主が語り、示して下さったことでした(3b-4節)。ですから私たちは、福音に完全な信頼を置くことが出来るのです。
    2. イエス様の死、それは私たちのためでした(8b-9節)。福音の根幹はイエス様の死と復活です(Ⅰコリント15:3-5)。そしてそこから罪の赦し、永遠の命、失望に終わることのない希望、全ての良いことが流れ出てきます。人手による力が尽きたとき、そこに主のご計画があります(エレミヤ29:10-11)。十字架の死と復活はその型なのです。
    3. イエス様は私たちのところに来て下さり(ヨハネ1:14)、そして私たちと同じところを通って下さいました(14-16節)。そして今、私たちの大祭司として私たちを助け、励まして下さっています(17-18節)。それゆえ私たちはこのお方に完全な信頼を置くことができるのです。
     
    三、
     イエス様が私たちと同じところを通って下さったこと、そのことから私たちは、主に信頼して歩むときに、イエス様の足跡に真に従うことができることを知ります。また聖霊様がその歩みを助けて下さいます。イエス様は私たちの弱さをご存じです。そしてその上で勇敢であるように(ヨハネ16:33)と励ましておられます。主は私たちを決して見放されません(申命記31:6)。そこに私たちの確信と励ましをいただいて、歩み続けていきましょう。

    2009/8/16 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#1~イエス様について
    ヘブル書1章
    一、
     今日からヘブル人への手紙について見ていきましょう。信仰の困難に面している人々に書かれたこの手紙は、今を生きる私たちにも、励ましと慰めを語っているのです。
     
    二、
     ヘブル書の著者はまず御子イエス様について、旧約聖書の指し示していたのはこのお方であったことを語ります(1-2節)。確かに、新しい契約の光で旧約聖書を見るときに、私たちはそこに隠されていた意味を悟るのです。
    1. イエス様が天地万物を造り、保っておられます(3節)。全てはイエス様の主権の中で許されて起こることであり、裏を返して言えば、イエス様が私たちのためにとどめておられることは決して起こることはありません(マタイ10:29-31)。
    2. イエス様が真の主権者なるお方です(7-9節)。イエス様の裁きの座に全ての人は立たなければなりません(Ⅱコリント5:10)。しかし私たちにとってはそれは慰めであり、励ましです。なぜならイエス様の十字架の犠牲により、私たちは罪の裁きを受けることはないからです。
    3. イエス様こそがアルファでありオメガ(黙示録1:8)、永遠に変わることのないお方です(10-12節)。イエス様こそが王の王なるお方、主の主なるお方、そして驚くべきことに、それにもかかわらず私たちの友でいてくださるお方です(ヨハネ15:14-15)。
     
    三、
     ヘブル書の著者は、まず最初にイエス様について語りました。それはイエス様がどのようなお方かということが、私たちにとってまず最初に大切なことだからです。世のどこにも、誰にも無いこと、ただ私たちだけが持つことを許されているのが、私たちの救い主イエス様です。確かに私たちの信仰はすべてイエス様によるものであり(ガラテヤ2:20)、それゆえ私たちはこのお方に信頼を置いて歩むのです。イエス様に信頼して歩むときに、このお方の勝利と復活の命の力が働きます。イエス様に焦点を合わせて、日々歩んでいきましょう。

    2009/8/9 聖日礼拝メッセージ

    キリストにとどまる
    ヨハネ福音書15章4-5節
    一、
     私たちの信仰の要点は、イエス様です。聖書の教えは素晴らしいものですが、それもイエス様から切り離しては、存在し得ません。信仰生活とは教えを行うことではなく、実にイエス様への信頼なのです。
     
    二、
     クリスチャンであることは、ただイエス様に導かれて生きる、それだけです(ピリピ1:21)。逆にイエス様から外れて生きる、それが罪の本質です。
    1. 神様から離れて、神様以外のものを心に据えるとき、そこに満たしはなく、その偶像は必ず私たちを裏切ります(イザヤ44:9-11)。そうではなく、まことの神様、このお方だけが私たちの頼む岩です(イザヤ44:6-8)。
    2. 困難の中にあるとき、しかしイエス様に目を留めることが大切です。しかしそれは私たちがイエス様に必死でとどまらなければならない、そうしなければ私たちはイエス様から離れてしまう、というものではありません。驚くべきことに、私たちがイエス様にとどまろうとするときに、イエス様が私たちの内にとどまってくださるのです(ヨハネ15:4a)。それゆえ私たちは、ただ主のみもとにいること(ルカ10:41-42)、そこで平安をいただくこと(ヨハネ14:27)が大切なのです。
    3. 私たちが滅びることなくここまで生かされてきたのは、主の恵みでした(哀歌3:22-24)。そしてこのお方が私たちに計画をお持ちで(エレミヤ29:11)、それは空手形ではなくて主が成就させてくださることなのです(イザヤ55:10-11)。それゆえ私たちはイエス様の平安の中を、その平安に導かれて進むのです(コロサイ3:15-16)。
     
    三、
     一年もいよいよ後半に入っていく時期ですが、イエス様にとどまる、そのことをもう一度覚えたいと思います。ブドウの枝は木にとどまるときに枝を結びます。イエス様にとどまるとき、それはイエス様を追い求めるのではなくて、イエス様が私たちと共におられるのでそこにとどまるということですけれども、私たちは安息の中で多くの実を結ぶことができるのです(ヨハネ15:4-5)。

    2009/8/2 聖日礼拝メッセージ

    希望
    エレミヤ書29章10-11節
    一、
     私たちの神様は私たちに希望を与えてくださるお方です。しかしこの希望は、この世でいうところの願いや望みとは、少し異なったところがあります。
     
    二、
     神様はユダの民がバビロンに捕囚として捕らわれた時、目に見える状況の中に何の希望もないように思われる時に、回復のご計画、将来と希望を与える計画についてお語りになりました。
    1. 聖書が語る希望とは、単に何かを望むこと以上のものです。それは自我の願望を満たすために何かを願うことではなくて、イエス様に信頼を置いて、このお方が私たちのためにして下さることを、望みをもって待つことです(ローマ8:24-25)。
    2. 私たちが自我を満たそうとする願いを希望としていたとき、その希望は決して満たされることがありませんでした(箴言30:15-16)。否、その結末は死でした(ローマ6:20-21)。しかし試練の中を通されて、主を見上げ、主に信頼することを学ぶ中で、私たちは平安を得ました(ヘブル12:11)。試練の中でふるい落とされるべきものがふるい落とされる時、私たちは主への信頼をもう一度確立します(ヘブル12:26-27)。そしてそこにこそ、私たちは希望を置くことができるのです。
    3. 主への信頼、それこそが私たちが未だ見ていない希望を保証し、実体化します(ヘブル11:1)。それは主こそが真実なお方で(Ⅱテモテ2:13)、私たちが置く信頼に必ず応えて下さるからです。私たちの希望とは、信仰とは切り離せません。むしろ信仰こそが、私たちの希望となるのです。
     
    三、
     私たちは希望がないと語られる時代、失望の時代を生きています。しかし目に見える状況に失望させられることは、幸いな経験ですらあります。その時私たちは主だけが私たちの望みをかけるに足りるお方であることを知ります(マタイ12:17-21)。主こそが私たちの救いです(詩篇121:1-2)。そして私たちは主の力強い御手に信頼し、主の希望を仰ぎ見て歩むのです。

    2009/7/26 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#13~最後の勧告Ⅱ
    申命記30章
    一、
     さて、今日は出エジプトの物語の最後、モーセから民への勧めの後半の部分です。モーセは何を大切なこととして語るのでしょうか。
     
    二、
     モーセはまず、イスラエルの民がやがて神様に背くこと、そして裁きを招くこと、しかし神様があわれみによって彼らを悔い改めさせ、そして再び集めて下さることを語ります(1-3節)。
    1. モーセは主が彼らを連れ戻し、そして再び祝福を与えて下さることを語ります(4-5節)。神様はあわれみ深いお方で、私たちが風のようなものにしか過ぎないことをご存じです(詩篇78:38-39)。イエス様はそのような私たちの弱さをご存じで、それゆえに私たちのことをいつも取りなしてくださっているのです(ヘブル4:14-15)。
    2. そこで神様は私たちに新しい心を与えて下さいます(6節)。私たちが生きるのは、道徳や倫理や宗教によってではありません。ただ信仰によるのです(ローマ1:17)。その時主は私たちを敵からさえ守り(7節)、そして良いもので私たちを満たして下さいます(8-10節)。
    3. 私たちが神様を第一にするときに、神様は必ず良いもので満たして下さいますが(マタイ6:33)、ここで神様に従うことは、戒律や規則などの難しいことではありません。否、信仰の歩みとは、心に信じ口で言い表す、それだけのことです(ローマ10:8-9)。このお方に信頼して歩むときに、私たちは主が願っておられるところへと入っていくことができるのです。
     
    三、
     エジプトを出てから40年、主は真実なお方で、イスラエルをカナンの地まで導いて下さいました。40年間の荒野の歩みは過酷ですらありましたが、そこでイスラエルの肉の部分が削られた時に、神様の命、ご計画が解き放たれたのでした。私たちの歩みには報いがあります。ですから私たちの信仰を投げ出すことがないようにしましょう(ヘブル10:35-39)。かえって信仰を整えられて、主が与えようとしておられる地に共に入っていこうではありませんか。

    2009/7/19 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#12~最後の勧告Ⅰ
    申命記29章
    一、
     イスラエルのカナン入国を前にして、モーセは最後の勧めと戒めを語りました。それは私たちに対する勧めと戒め、また励ましでもあります。
     
    二、
     モーセはまず、イスラエルの民に神様がこの40年間にしてくださった大きな奇蹟の数々について語りました(2-4節)。しかしそれらのことによっては、民は信仰を持つことはできなかったのです。
    1. 私たちは見るところによって信仰を持つのではありません。見えないお方の真実に信頼を置き、そしてそのお方の真実を経験することによって(4-5節)信頼が強められていくのです。
      →それゆえ敵は、目に見えるもので私たちの焦点を神様からそらさせようとします(Ⅰヨハネ2:15-16)。注意が必要です。
    2. モーセはついで、救いの約束がまだここにいない人々にも開かれていることを語りました(10-15節)。
      →それはペンテコステの日にペテロが語ったことでもありました(使徒2:39)。それゆえ私たちは福音を語り続けるのです。
    3. モーセはさらに、心を吟味して、罪を生じさせる根がないかどうか、もしそれがあるならば取り除かなければならないことを語ります(16-18節)。また罪を絶対に避けなければならないことについて、厳しく警告します(19-20節)。
      →根は目に見えないものですが、これがある限り罪から解放されることはありません。それゆえ私たちは、心の一新によって変えられる必要があるのです(ローマ12:2)。
     
    三、
     私たちは全てを知ることが許されているわけではありませんが(29節)、しかしこれまで神様が現して下さった愛と恵みは、私たちを生かすにはあまりにも十分なものでした(イザヤ43:4, 7)。私たちの救いは主にあります(詩篇121:1-2)。私たちは主に信頼し続け、そして歩み続けるのです。

    2009/7/12 献堂30周年記念礼拝メッセージ

    キリストのみわざ
    ヘブル書1章1-4節
    森谷 勉師

    2009/7/5 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#11~カナン入国を前にしてⅠ
    申命記8章
    一、
     イスラエルはいよいよカナン入国を目前にして、カナンの東、モアブの地に宿営しました。そこでモーセは、もう一度民が守るべき戒めについて語り、そして彼らが持つべき心について教えました。
     
    二、
     モーセはまず民に、神様の命令を守ることを命じました。私たちは確かに神様に委ねられた使命を行っていく必要があります。そしてそこで、忘れてはならないことがあるのです。
    1. モーセは、かつてあった試練の日々を忘れないようにと命じました(2節)。
      →神様の試練は、私たちが神様の求めておられる基準に達しているかどうかを示すためのものです(詩篇119:71)。
    2. イスラエルの民に足りなかったもの、それは神様への本当の信頼でした(ヘブル3:17-19)。神様がシナイの40年間をイスラエルが通るようにされたのは、人が肉の糧ではなく、主の言葉によって生きることを彼らが悟るため(3節)、そのための訓練だったのです(5-6節)。
      →信仰こそが私たちを生かします。すなわち、私たちが求めるべきものはまず神様ご自身です。地上で必要な全てのことは、その時に添えて与えられるものです(マタイ6:32)。
    3. カナンの地に入るときに、主を忘れないように、富に仕えてしまうことがないように、モーセは繰り返し警告します(10-18節)。
      →神様は私たちを祝福して下さいますが、祝福が私たちの誇りや偶像になってしまってはいけません(マタイ6:24)。むしろそれを与えて下さったお方に感謝すべきなのです。
     
    三、
     神様は真実なお方で、イスラエルをカナンの地まで導いて下さいました。しかしカナンの地に入って行くにあたって彼らが決して忘れてはならないことがありました。それは神様への信頼、忠誠です。私たちも、ただ主だけを心に据えて、そして主の願っておられるところへと進んでいきましょう。

    2009/6/28 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#10~モーセの失敗
    民数記20章1-13節
    一、
     イスラエルはその不信仰によって40年間、荒野にとどめ置かれました。そしていよいよ神様が彼らをカナンの地に導こうとされた時、これまで民を導いてきたモーセが、大きな失敗をしてしまうことになりました。
     
    二、
     荒野での40年の間、神様はイスラエルの古い部分を削られ、約束の地に導き入れるのにふさわしい状態に整えられました。しかし40年間の最後の年が始まった時(20:1)に、ある問題が起こりました。
    1. イスラエルがツィンの荒野に着いたとき、そこには水がありませんでした。それで民は集まってモーセとアロンに逆らい、神様への不信仰を示しました(1-5節)。
      →仮に状況が悪く見えることがあったとしても、神様を偽り者としてはいけません。神様だけは常に真実で(ローマ3:3-4)、いつも私たちに恵み深くいてくださるお方です(詩篇100:5)。
    2. モーセとアロンが主の前に出たとき、そこに神様の栄光が現れました(6節)。私たちの弱さの中にこそ、神様の栄光が現されます(Ⅱコリント4:6-7)。神様はモーセに、岩に命じて水を出させるようにと仰せになりました(7-8節)。
      →神様はしばしば私たちに、簡単なことを命じられます。それは、私たちの信仰、神様への純粋な信頼を見ようとされるからです。
    3. 怒りに駆られていたモーセは杖を取り、自らの感情に任せて岩を打ちました(9-11節)。神様はそれでもなお水を出し、民が水を飲むことができるようにしてくださいました。しかし彼がしたことは神様への不信仰であり、また神様に栄光をお返ししないことでした。
      →私たちはいつも自分の心を見張っていなければならないのです(箴言4:23)。
     
    三、
     モーセはこの結果、カナンに入国することができなくなりました(12節)。小さな不信仰の代償はあまりにも大きなものでした。私たちはいつも心を見張って、そして共に支え合い、励まし合って進む者となりましょう。その時、私たちは共に、主にある栄光に与る人々となるのです(ヘブル3:12-14)。

    2009/6/21 父の日礼拝メッセージ

    天の父を見上げて
    ヤコブ書1章17-18節
    一、
    今日は父の日礼拝です。地上での父子関係では、時々難しいことがあるかもしれません。しかし天の父なる神様を見上げるときに、この地上での父子関係もまた、感謝に変わります。
     
    二、
     イエス様がこの地上に来てくださったのは、親子の関係に和解と修復を与えるためでもありました(マラキ4:5-6)。この地上で良い親子関係を持つことは、容易なことではありません。しかし感謝なことは、私たちは主にあって全てが新しくされる人々であることです(Ⅱコリント5:17)。
    1. 私たちのこれまでの歩みには様々なことがありました。親子関係の中でもいろんなことがあったかもしれません。しかし主は真実なお方で、親子関係に問題があったとしても、なお私たちを守って(ヨブ38:8-11)、今に至るまで導いてくださいました(Ⅰコリント10:13)。
    2. この地上での親子関係が難しいものであるとしても、私たちは救いに与ったときに、天の父なる神様との親子関係をいただきました(ローマ8:15)。その時に、私たちはこの地上にあっても素晴らしい親子の関係を持つことができます。
    3. 主にある親子関係とは、子どもたちが主にあって父母を敬うこと(エペソ6:1-3)、そして父親が主の教育と訓戒によって子どもを育てることです(エペソ6:4)。父が子に残すものとは、何かの財産ではなくて生き方のお手本です。そして神様にある永遠を子どもたちに手渡すことができるとすれば、それは何と素晴らしいことでしょう。
     
    三、
     私たちは天の父なる神様がここまで私たちを養い、守り、導いて下さったことを覚えます。そしてその中で地上での父を与えて下さった、そのことを思うときに、様々な感情があるとしても私たちは主にある愛で地上での父を愛し、敬うことができます。それが救いの初穂としての私たちに神様が願っておられることなのです(ヤコブ1:17-18)。

    2009/6/14 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#9~不信仰の結果
    民数記13-14章
    一、
     神様はイスラエルの民が金の子牛によってその不信仰を示した時にさえ、その罪をお赦しになりましたが、民の不信仰はついにカナン入国の最初の機会を目前にして、あまりにも大きな裁きを招くことになりました。
     
    二、
     イスラエルの民はシナイの地を北上して、カナンの地をうかがうところまで来ました。そこで神様はモーセに、斥候を遣わしてカナンの地を探るように命じられました(13章1-3節)。
    1. モーセはその地をしっかりと探ってくるように命じました(13:17-20)。信仰とは現実逃避や猪突猛進ではありません。現実の中にあって、なおそこで働いて下さるお方を見上げ、信頼することです(詩篇121:1-2)。
    2. 彼らは約束の地を探り(13:21-24)、帰ってきました。彼らはその地が確かに神様が約束されたとおりの素晴らしい地であることを報告しましたが(13:25-27)、同時に敵が強すぎて、その地で自分たちが滅びてしまうとも語りました(13:31-33)。彼らはこれまで驚くべき奇蹟を見てきたにも関わらず、その奇蹟だけを見て、その奇蹟をなして下さったお方に信頼することをしていなかったのです。
    3. 彼らは不信仰を示し、エジプトに帰ろうとさえ言いました(14:1-3)。神様はあわれみのゆえに約束の地を与えることを取り消されませんでしたが、民は不信仰の結果として、40年間の放浪というあまりにも大きな代償を払うことになりました(14:35)。
     
    三、
     イスラエルの不信仰から、私たちは信仰を保ち続けることの大切さを学びます(ヘブル3:16-19)。そしてそのためには、まず神様が私たちに示して下さった、与えて下さった愛を思い起こすことです(黙示録2:2-5a)。そしてイエス様が私たちの弱さを知っておられること、このお方に委ね、信頼することが出来ることを覚えましょう(ヘブル4:14-16)。信仰こそが私たちを、今ある私たちから、神様が願っておられる私たちへと変えていくものなのです。

    2009/6/7 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#8~金の子牛
    出エジプト記32章
    一、
     イスラエルの民はホレブの山で十戒をいただくという経験をしましたが、しかし早くもその不信仰を金の子牛という形で示してしまいました。
     
    二、
     モーセが神様から十戒をいただくためにホレブの山に登って、40日40夜が過ぎました。その時イスラエルの民は待つことができなくなり、アロンを脅して偶像を造らせました(1-3節)。
    1. イスラエルはこれまで数多くの驚くべき奇蹟を見せられていたにも関わらず、モーセが不在になっただけで、その不信仰を示してしまいました。信仰とは見て信じるものではなく、見ないで信じるものなのです(ヘブル11:1)。逆に見えるものこそが、私たちを神様から引き離すものなのです(Ⅰヨハネ2:16)。
    2. 民は偶像礼拝の結果、罪を犯し始めました(7節)。そして神様の激しい怒りを引き起こしました(9-10節)。しかしそれは、ただ悪を行ったからだけではなくて、まず神様がイスラエルを深く愛してくださったにもかかわらず、彼らが神様を捨てようとしたからでした。まことの神様だけが、私たちを愛し、私たちの将来に責任を負っていてくださるお方です(エレミヤ29:11)。このお方から私たちを引き離そうとするものは、何であれ偶像礼拝なのです(コロサイ3:5)。
    3. モーセはアロンを詰問しましたが、ここでアロンは弁解をし、嘘さえついてしまいました(22-24節)。罪を犯したときに必要なことは、取り繕いではありません。悔い改めること、それだけです(詩篇51:16-17)。
     
    三、
     神様の前に正しく歩む、それが私たちにとって一番良いことです。それは何かの難行苦行ではなくて、ただイエス様を見上げて歩む、シンプルなことです(Ⅱテモテ2:8)。その時に私たちは揺るがされることなく、いつも定まった状態にあることができます(詩篇57:5-7)。偶像に仕えるのではなく、主に信頼し堅く立って、今週も歩んでいきましょう。

    2009/5/31 ペンテコステ礼拝メッセージ

    聖霊に満たされて歩む
    使徒の働き2章1-4節
    一、
     今日はペンテコステ、聖霊様が信じる者たちの上にお下りになって、教会が始まった日です。聖霊様に満たされるとき、私たちはどのような者とされるのでしょうか。
     
    二、
     旧約の時代には、律法が与えられていました。しかし律法は罪を示すものではあっても、その罪の性質を作り変えることはできませんでした。聖霊様による新生が私たちには必要だったのです。
    1. イエス様は復活されて後、弟子たちに多くのことを教えられましたが、そこでエルサレムにとどまって、聖霊のバプテスマを受けるように命じられました(使徒1:3-5)。聖霊のバプテスマこそ、新約の時代(ヨハネ1:17)の始まりを告げるものであり、そこで全ての信じる者に聖霊が内住されるという驚くべき恵みが与えられるようになったのです(ヘブル8:7-11)。
    2. 旧約聖書で「初穂の日」と呼ばれていた五旬節の日、信じる者たちの上に聖霊様が炎のような現れをもって下り、ひとりひとりを満たしてくださいました(使徒2:1-4)。その時、彼らは大胆に、力強く福音を語り始めました。聖霊様は弱い私たちを燃やし、力を与え、大胆に福音を証しさせてくださるのです(使徒4:8-12)。
    3. 聖霊様に満たされるとき、私たちは内側から(ヨハネ14:16-17)変えられ、ますますイエス様の内にとどまっていきます(Ⅰヨハネ2:27)。聖霊様の現れはひとりひとり違うものかもしれませんし、それは問題ではありませんが(Ⅰコリント12:7-13)、日々の歩みの中に聖霊様に満たされて、そして委ねて歩むこと、そのことが大切です。
     
    三、
     このペンテコステの日、私たちは今一度聖霊様に満たされることを求めていきましょう。初代教会の人々がそうであったように、私たちも聖霊様によって満たされ、力をいただき、心燃やされて歩みましょう。聖霊様はこれまでも、そしてこれからも私たちを導いてくださいます。

    2009/5/24 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#7~十戒
    出エジプト記19-20章
    一、
     シナイ半島でマナの養いを受けたイスラエルは、ホレブの山へと導かれました。神様はそのところで、十戒をお授けになりました。
     
    二、
     神様はまずイスラエルに、神様がここまで導いて下さったことを思い起こすようにと語られました(19章3-4節)。そしてイスラエルを神の民とするという約束をお告げになり(19章5-6a節)、十の戒めをお与えになりました。
    1. まず最初に、神様だけがまことの神であり、主であることを語られました(20章1-2節)。そして他に神が存在してはならないこと(3節)、いかなる偶像も造ってはならないことを命じられました(4-6節)。私たちが讃美を捧げることの出来るお方、そして讃美を受けるのにふさわしいお方はイエス様ただひとりです。このお方こそが私たちの期待を裏切ることなく、これまでもそしてこれからも私たちの力強い主でいて下さるお方です。
    2. 次に、主の御名を重んじること(7節)、安息日を守ることを命じられました(8-11節)。私たちはイエス様の名によって救われ、集められた人々です。それゆえいつもイエス様の名の下にある者として自らを吟味しなければいけません。また聖日を重んじ、私たちの時間から取り分けてお捧げすることを忘れてはいけません。それは行いの問題ではなく、私たちの神様への心です(申命記5:15)。
    3. 最後に、私たちの人間関係の大原則について命じられました(12-17節)。私たちは神様の恵みによって救われて、その中を生かされています。そしてそれは周りの人々にも神様の恵みを証しする生き方になるものです。
     
    三、
     神様はモーセを通してイスラエルに十戒をお与えになりました。それは十戒を通して神様の基準を知り、神様にその思いが向くためでした(ガラテヤ3:23-24)。私たちも御言葉を知るときに、束縛されるのでなく、むしろますます自由にされていきます(詩篇119:105)。御言葉の中に自分を浸し、主にある本当の自由をいただいて、歩んでいきましょう。

    2009/5/17 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#6~マナの養い
    出エジプト記16章
    一、
     イスラエルは紅海を渡った後で、カナンへの最短距離を取らずにシナイ半島の南、荒野へと向かいました。それは神様がイスラエルの民を試みるためで、その結果、彼らの心の中にあるものが明らかになるためでした(申命記8:2)。
     
    二、
     イスラエルの民が荒野に入ったとき、彼らは食物のことでつぶやきました。彼らは神様に信頼することをせずに、エジプトを懐かしみさえすることで、その不信仰を示しました(1-3節)。しかし神様は真実なお方で、イスラエルに対して天からのパン、マナによる養いを約束なさいました(4-5節)。
    1. このマナは、日々の神様からの養いを意味しています。私たちは日々の霊的な養いを、神様の御言葉からいただく必要があるのです。そしてそれは何かの苦行ではなく、実は私たちの魂に甘い経験なのです(詩篇19:7-10)。
    2. 神様は日々マナを与えて下さいましたが、毎日集めること、古いマナを取っておくことがないように命じられました(11-18節)。ある人々がそれを聞かずに翌日まで取っておくと、なんとそれは悪臭を放ちました(19-20節)。神様による日々の養いを拒む不信仰は、神様から私たちを逸らせ、そしてキリストの香りではなくて、私たちの悪臭を漂わせる不従順にさえつながりかねないのです。
    3. 私たちは、日々新しい養いをいただく必要があります。日々私たちは御言葉によって養いを受け、そして自分自身を神様の御思いに合わせる、調整する必要があるのです。その時、私たちは神様の最高を為すのです。
     
    三、
     神様は、このマナの養いを40年間絶えることなく、イスラエルの民にお与えになりました。この養いは日々新しく、そして荒野での歩みの間、絶えることがありませんでした。私たちもこの地上で魂に飢えや渇きを覚えることがあるかもしれません。しかし神様は日ごとのマナを既に約束して下さっています。イスラエルの民と同様に、私たちも日々御言葉の糧をいただいて歩むとき、乏しいことがなく、主の真実を経験し続けることができるのです(詩篇100:5)。

    2009/5/10 母の日礼拝メッセージ

    愛の形
    エペソ書5章21節
    ヘホ・ベネディクト師
    一、偽りの愛の形
     私たちは「愛される」存在として造られた。しかし私たちは愛を与え損なうことがあるし、また受け損なうことがある。
     私たちには「こうすることで愛されていると感じる」形がある。その形は個人によって異なる。
    1. 贈り物が愛の形である人
    2. スキンシップ/フィジカルコンタクトが愛の形である人
    3. 言葉/コミュニケーションが愛の形である人
     小さい頃に愛を十分に受けた人は、大きくなっても愛をいろんな形を通して受け取ることができる。しかし小さい頃に愛を十分に受けなかった人は、特定の形で愛を受け取ることに固執する。親子関係、特に夫婦関係の中で偽りの愛の形が暗黙の要求になる。
    愛してくれるなら → お金を使ってくれるはず
             → 一緒にいてくれるはず
             → ~をしてくれるはず etc.
     
    二、聖書が語る愛の形
     Ⅰコリント13 → 愛の本質について語るが、外形的なことについては語らない。外形的には、様々な形で表現される。
     良くない親の下で育った子であったとしても、神様はもう一度その与えられなかった愛を与えて下さる。もしそうでなければ、愛は釣り合いのとれない者同士のシーソーゲームになってしまう。そこで十字架の仲裁が必要になる。イエス様が真ん中に立って下さって、重しとなって安定させて下さる必要がある。
     愛の形が私たちの偶像になってしまう。偶像の前で私たちはひれ伏してしまう。むしろイエス様が真ん中に来て下さることが必要。十字架に自分の愛の形を捨てて、そしてイエス様によって再生させていただく。
     
    三、具体例
    1. 自分の愛の形を認識する。
    2. 素直に相手に伝える。
    3. 最終的には、神様が満たし手であることを覚える。その時に私たちは楽にされる。
     エペソ5:21
     母親がまずたくさんの愛が必要。

    2009/5/3 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#5~紅海を渡る
    出エジプト記14章
    一、
     イスラエルの民はいよいよエジプトを出てカナンの地への旅を始めました。しかしその前に、エジプトから完全な解放を得る必要があったのです。
     
    二、
     イスラエルがエジプトを出てカナンに向かうとき、主はモーセに紅海の手前で宿営するように命じられました(1-3節)。私たちはしばしば災いがないことを願います。しかしイエス様が願っておられることは、私たちが患難から取り去られることではなくて、その中で守られることでした(ヨハネ17:14-15)。
    1. エジプトはイスラエルが出て行った後で考えを変えて(5節)、再びイスラエルを捕らえようと出てきました。その時イスラエルの人々はつぶやき、エジプトにいた方がよかったとさえ言いました(10-12節)。
      →しかし主のご計画は、私たちがエジプトにとどまる限り成就することはありません。私たちの受け継ぐ分は、エジプトには決してないのです。
    2. モーセは民に、主が戦って下さること、それゆえ恐れてはならないことを語りました(13-14節)。
      →信仰とは、信頼を神様に置くという私たちの自発的な決断、意志です。その時に私たちは揺るがされることがありません(詩篇125:1)。
    3. 主は不思議な方法でイスラエルを守り、紅海の水を分けて道をもうけ(19-21節)、エジプトの手から逃れさせてくださいました。そしてイスラエルが紅海を渡った後で、エジプトの全軍勢は水に飲まれてしまいました(26-29節)。
      →それは驚くべき奇蹟でしたが、イスラエルを救い出したのは奇蹟ではなく、それをなして下さった主でした。主がイスラエルを守られたのです。
     
    三、
     私たちも過去に訣別するために、あるいは紅海を渡る経験を通らされることがあるかもしれません。しかしそこで私たちは主に信頼すること、主が偉大なお方であること、そしてエジプトに完全に訣別することを学びます。主に信頼して、新しい出発をいただいた者であることを覚えて、歩んでいきましょう。