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    2009/9/27 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#5~信仰の従順
    ヘブル書5章
    一、
     今日はヘブル書の5章です。ここで著者はイエス様が示された従順について語ります。それは私たちの信仰への模範なのです。
     
    二、
     旧約時代、イスラエルは神の民とされていましたが、なお神様との間の仲介者として大祭司が立てられていました。しかしこの大祭司は、やがて来られるお方の影にしか過ぎませんでした。人の大祭司は、人々のためだけでなく、自分のためにもなお、罪のささげ物をしなければならなかったのです(3節)。
    1. しかし今や、神の御子なるイエス様がまことの大祭司として来てくださいました。それは私たちの模範のためでもあります。イエス様はまず敬虔という模範を、私たちのために示してくださいました(7節)。
    2. イエス様は次に、従順という模範を私たちに示してくださいました(8-10節)。私たちの救いが信仰によった以上、私たちの行いの基準もまた信仰によります。そしてそこで問題となるのは私たちの動機、そして神様への従順です(ローマ14:22-23)。イエス様はこの点においても、神の御子なる方であったにもかかわらず、私たちへの完全な模範を示してくださいました。確かに私たちがいつも主を見上げているときに、私たちは主と同じ姿に変えられていくのです(Ⅱコリント3:16-18)。
    3. さらに著者は、信仰の成長について私たちが達すべき目標について語ります(13-14節)。私たちは信仰の歩みの中で、感覚もまた訓練される必要があります。神様への従順、そしてそこからいただくことのできる平安(ヨハネ14:27)を、私たちは大切にしていく必要があります。
     
    三、
     イエス様の従順、それは私たちの信仰の模範です。神様への信仰は従順という形を取って表れるべきものです。イエス様が十字架の死に至るまでの従順という模範を示されました。ですから私たちもまた、神様への信頼と同時に、従順も学んでいきましょう。信仰の鍵はイエス様です(Ⅱテモテ2:8-10)。いつもイエス様を見上げて、信仰の従順を全うしていきましょう。

    2009/9/20 敬老祝福礼拝メッセージ

    私たちを背負ってくださるお方
    イザヤ書46章
    一、
     今日は敬老祝福礼拝です。私たちの主は永遠の昔から私たちを選び、そしてご自分の真実をいつまでも、-私たちが老いたときでさえ-、尽くしてくださるお方です。
     
    二、
     イザヤ書46章で神様は、バビロンの偶像が倒される日が来ることをお語りになりました。世の偶像は空しいものです。ただ私たちの神様こそがまことの神様で、そして真実なお方です。
    1. 世の中には多くの偶像、神々が存在しますが、ひとつとして私たちの主と同じ神は存在しません(1-2節)。偶像とはあくまでも、私たちが作り上げるものにしか過ぎないのです(Ⅰコリント8:4-6)。
    2. かえって主は私たちに、私たちが永遠の昔から選ばれており、神様のご計画の中に置かれていたことをお語りになります(3節)。私たちの歩みの中で多くの不思議がありましたが、それは決して偶然ではなく、神様のご計画でした(エペソ1:4-5)。そこにはただ主の真実があったのです(Ⅱコリント1:19-20)。
    3. そして神様は私たちに、私たちが地上の歩みを終えるその時まで、私たちを背負い、運んでくださることをお語りになります(4節)。世の偶像はどれほど魅惑的に見えるとしても、何の力もありません(5-7節)。しかし私たちの神様は全能なるお方で、私たちの上に置いてくださっているご計画を必ず成就してくださいます。それゆえ私たちは、たとえ火の中、水の中を通されることがあるときでさえ、それらによって倒れることはありません(イザヤ43:1-2)。
     
    三、
     主の真実の中を歩んでこられた方を見るとき、私たちはその歩みに敬意を表すと同時に、主が私たちに真実を尽くしてくださることを知り、励まされます。主の真実を日々経験して、私たちも信仰の先輩にならう者とされていきましょう。主は私たちを「白髪になっても」なお背負ってくださるのです。

    2009/9/13 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#4~信仰の鍵
    ヘブル書4章
    一、
     今日はヘブル書の4章です。不信仰になってはいけないこと、そのために心を頑なにしてはならないこと、しかしそれは律法ではなく、ただ大祭司なるイエス様に信頼を置くことであることが、語られます。
     
    二、
     ヘブル書の著者は4章でまず、神様を恐れることについて語ります(1節)。確かに私たちは思い違いをしてはいけません(ガラテヤ6:7-8)。そのためにはいつも御言葉を信仰によって聞くことが大切です(2節)。そして以下のことが語られます。
    1. 信じる私たちは神様の安息をいただきます(3-4節)。安息とは私たちが作るものではなく、イエス様からいただくものです(ヨハネ14:27)。神様が私たちの保証でいてくださいます(イザヤ46:3-4)。その時、確かな平安が私たちの内にあるのです。
    2. また、心を頑なにしてはならないことが警告されます(5-7節)。御言葉をいただくときに、私たちの心は「堅い地」ではなく「良い地」でなければなりません。その時に私たちは多くの実を結びます(マタイ13:23)。そのためにも、いつも御言葉によって自分の心を吟味すること(12節)、また私たちのする全てのことが神様の前に明らかにされていることを覚えること(13節)は、大切です。
    3. しかしこれらのことは、決して何かの戒律ではありません。律法によっては、私たちは義を獲得することはできません。私たちの大祭司であるイエス様を見上げ、このお方に信頼を置いて歩むことです(14-16節)。
     
    三、
     もし私たちの歩みが「~しなければならない」というものであったなら、それは私たちには不可能なことでした。しかしイエス様は私たちの弱さをご存じで、私たちを父なる神様の前で取りなし、そして私たちを励ましてくださいます。ですから私たちは大胆に主の前に出て、そして助けと恵みをいただきましょう。そしてますます、信仰を強められていきましょう。

    2009/9/6 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#3~不信仰への警告
    ヘブル書3章

    2009/8/23 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#2~私たちのために人となられた主
    ヘブル書2章
    一、
     今日はヘブル書の2章です。主が私たちのために苦しみを受けられたこと、そして主が今、私たちを苦しみの中にあっても助けて下さっていることを、ヘブル書の著者は語ります。
     
    二、
     まず初めに、最初に聞いたところにとどまることが勧められます(1節)。それは聖書に一貫するメッセージでもあります(エペソ4:14、Ⅰヨハネ2:24ほか)。ポイントはイエス様です。このお方にのみ、私たちの平安があるのです(マタイ11:28-30)。
    1. 私たちの聞いたことは、人手によることではなくて主が語り、示して下さったことでした(3b-4節)。ですから私たちは、福音に完全な信頼を置くことが出来るのです。
    2. イエス様の死、それは私たちのためでした(8b-9節)。福音の根幹はイエス様の死と復活です(Ⅰコリント15:3-5)。そしてそこから罪の赦し、永遠の命、失望に終わることのない希望、全ての良いことが流れ出てきます。人手による力が尽きたとき、そこに主のご計画があります(エレミヤ29:10-11)。十字架の死と復活はその型なのです。
    3. イエス様は私たちのところに来て下さり(ヨハネ1:14)、そして私たちと同じところを通って下さいました(14-16節)。そして今、私たちの大祭司として私たちを助け、励まして下さっています(17-18節)。それゆえ私たちはこのお方に完全な信頼を置くことができるのです。
     
    三、
     イエス様が私たちと同じところを通って下さったこと、そのことから私たちは、主に信頼して歩むときに、イエス様の足跡に真に従うことができることを知ります。また聖霊様がその歩みを助けて下さいます。イエス様は私たちの弱さをご存じです。そしてその上で勇敢であるように(ヨハネ16:33)と励ましておられます。主は私たちを決して見放されません(申命記31:6)。そこに私たちの確信と励ましをいただいて、歩み続けていきましょう。