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    2009/8/16 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#1~イエス様について
    ヘブル書1章
    一、
     今日からヘブル人への手紙について見ていきましょう。信仰の困難に面している人々に書かれたこの手紙は、今を生きる私たちにも、励ましと慰めを語っているのです。
     
    二、
     ヘブル書の著者はまず御子イエス様について、旧約聖書の指し示していたのはこのお方であったことを語ります(1-2節)。確かに、新しい契約の光で旧約聖書を見るときに、私たちはそこに隠されていた意味を悟るのです。
    1. イエス様が天地万物を造り、保っておられます(3節)。全てはイエス様の主権の中で許されて起こることであり、裏を返して言えば、イエス様が私たちのためにとどめておられることは決して起こることはありません(マタイ10:29-31)。
    2. イエス様が真の主権者なるお方です(7-9節)。イエス様の裁きの座に全ての人は立たなければなりません(Ⅱコリント5:10)。しかし私たちにとってはそれは慰めであり、励ましです。なぜならイエス様の十字架の犠牲により、私たちは罪の裁きを受けることはないからです。
    3. イエス様こそがアルファでありオメガ(黙示録1:8)、永遠に変わることのないお方です(10-12節)。イエス様こそが王の王なるお方、主の主なるお方、そして驚くべきことに、それにもかかわらず私たちの友でいてくださるお方です(ヨハネ15:14-15)。
     
    三、
     ヘブル書の著者は、まず最初にイエス様について語りました。それはイエス様がどのようなお方かということが、私たちにとってまず最初に大切なことだからです。世のどこにも、誰にも無いこと、ただ私たちだけが持つことを許されているのが、私たちの救い主イエス様です。確かに私たちの信仰はすべてイエス様によるものであり(ガラテヤ2:20)、それゆえ私たちはこのお方に信頼を置いて歩むのです。イエス様に信頼して歩むときに、このお方の勝利と復活の命の力が働きます。イエス様に焦点を合わせて、日々歩んでいきましょう。

    2009/8/9 聖日礼拝メッセージ

    キリストにとどまる
    ヨハネ福音書15章4-5節
    一、
     私たちの信仰の要点は、イエス様です。聖書の教えは素晴らしいものですが、それもイエス様から切り離しては、存在し得ません。信仰生活とは教えを行うことではなく、実にイエス様への信頼なのです。
     
    二、
     クリスチャンであることは、ただイエス様に導かれて生きる、それだけです(ピリピ1:21)。逆にイエス様から外れて生きる、それが罪の本質です。
    1. 神様から離れて、神様以外のものを心に据えるとき、そこに満たしはなく、その偶像は必ず私たちを裏切ります(イザヤ44:9-11)。そうではなく、まことの神様、このお方だけが私たちの頼む岩です(イザヤ44:6-8)。
    2. 困難の中にあるとき、しかしイエス様に目を留めることが大切です。しかしそれは私たちがイエス様に必死でとどまらなければならない、そうしなければ私たちはイエス様から離れてしまう、というものではありません。驚くべきことに、私たちがイエス様にとどまろうとするときに、イエス様が私たちの内にとどまってくださるのです(ヨハネ15:4a)。それゆえ私たちは、ただ主のみもとにいること(ルカ10:41-42)、そこで平安をいただくこと(ヨハネ14:27)が大切なのです。
    3. 私たちが滅びることなくここまで生かされてきたのは、主の恵みでした(哀歌3:22-24)。そしてこのお方が私たちに計画をお持ちで(エレミヤ29:11)、それは空手形ではなくて主が成就させてくださることなのです(イザヤ55:10-11)。それゆえ私たちはイエス様の平安の中を、その平安に導かれて進むのです(コロサイ3:15-16)。
     
    三、
     一年もいよいよ後半に入っていく時期ですが、イエス様にとどまる、そのことをもう一度覚えたいと思います。ブドウの枝は木にとどまるときに枝を結びます。イエス様にとどまるとき、それはイエス様を追い求めるのではなくて、イエス様が私たちと共におられるのでそこにとどまるということですけれども、私たちは安息の中で多くの実を結ぶことができるのです(ヨハネ15:4-5)。

    2009/8/2 聖日礼拝メッセージ

    希望
    エレミヤ書29章10-11節
    一、
     私たちの神様は私たちに希望を与えてくださるお方です。しかしこの希望は、この世でいうところの願いや望みとは、少し異なったところがあります。
     
    二、
     神様はユダの民がバビロンに捕囚として捕らわれた時、目に見える状況の中に何の希望もないように思われる時に、回復のご計画、将来と希望を与える計画についてお語りになりました。
    1. 聖書が語る希望とは、単に何かを望むこと以上のものです。それは自我の願望を満たすために何かを願うことではなくて、イエス様に信頼を置いて、このお方が私たちのためにして下さることを、望みをもって待つことです(ローマ8:24-25)。
    2. 私たちが自我を満たそうとする願いを希望としていたとき、その希望は決して満たされることがありませんでした(箴言30:15-16)。否、その結末は死でした(ローマ6:20-21)。しかし試練の中を通されて、主を見上げ、主に信頼することを学ぶ中で、私たちは平安を得ました(ヘブル12:11)。試練の中でふるい落とされるべきものがふるい落とされる時、私たちは主への信頼をもう一度確立します(ヘブル12:26-27)。そしてそこにこそ、私たちは希望を置くことができるのです。
    3. 主への信頼、それこそが私たちが未だ見ていない希望を保証し、実体化します(ヘブル11:1)。それは主こそが真実なお方で(Ⅱテモテ2:13)、私たちが置く信頼に必ず応えて下さるからです。私たちの希望とは、信仰とは切り離せません。むしろ信仰こそが、私たちの希望となるのです。
     
    三、
     私たちは希望がないと語られる時代、失望の時代を生きています。しかし目に見える状況に失望させられることは、幸いな経験ですらあります。その時私たちは主だけが私たちの望みをかけるに足りるお方であることを知ります(マタイ12:17-21)。主こそが私たちの救いです(詩篇121:1-2)。そして私たちは主の力強い御手に信頼し、主の希望を仰ぎ見て歩むのです。