出エジプト#10~モーセの失敗
民数記20章1-13節
一、
イスラエルはその不信仰によって40年間、荒野にとどめ置かれました。そしていよいよ神様が彼らをカナンの地に導こうとされた時、これまで民を導いてきたモーセが、大きな失敗をしてしまうことになりました。
二、
荒野での40年の間、神様はイスラエルの古い部分を削られ、約束の地に導き入れるのにふさわしい状態に整えられました。しかし40年間の最後の年が始まった時(20:1)に、ある問題が起こりました。
- イスラエルがツィンの荒野に着いたとき、そこには水がありませんでした。それで民は集まってモーセとアロンに逆らい、神様への不信仰を示しました(1-5節)。
→仮に状況が悪く見えることがあったとしても、神様を偽り者としてはいけません。神様だけは常に真実で(ローマ3:3-4)、いつも私たちに恵み深くいてくださるお方です(詩篇100:5)。
- モーセとアロンが主の前に出たとき、そこに神様の栄光が現れました(6節)。私たちの弱さの中にこそ、神様の栄光が現されます(Ⅱコリント4:6-7)。神様はモーセに、岩に命じて水を出させるようにと仰せになりました(7-8節)。
→神様はしばしば私たちに、簡単なことを命じられます。それは、私たちの信仰、神様への純粋な信頼を見ようとされるからです。
- 怒りに駆られていたモーセは杖を取り、自らの感情に任せて岩を打ちました(9-11節)。神様はそれでもなお水を出し、民が水を飲むことができるようにしてくださいました。しかし彼がしたことは神様への不信仰であり、また神様に栄光をお返ししないことでした。
→私たちはいつも自分の心を見張っていなければならないのです(箴言4:23)。
三、
モーセはこの結果、カナンに入国することができなくなりました(12節)。小さな不信仰の代償はあまりにも大きなものでした。私たちはいつも心を見張って、そして共に支え合い、励まし合って進む者となりましょう。その時、私たちは共に、主にある栄光に与る人々となるのです(ヘブル3:12-14)。
天の父を見上げて
ヤコブ書1章17-18節
一、
今日は父の日礼拝です。地上での父子関係では、時々難しいことがあるかもしれません。しかし天の父なる神様を見上げるときに、この地上での父子関係もまた、感謝に変わります。
二、
イエス様がこの地上に来てくださったのは、親子の関係に和解と修復を与えるためでもありました(マラキ4:5-6)。この地上で良い親子関係を持つことは、容易なことではありません。しかし感謝なことは、私たちは主にあって全てが新しくされる人々であることです(Ⅱコリント5:17)。
- 私たちのこれまでの歩みには様々なことがありました。親子関係の中でもいろんなことがあったかもしれません。しかし主は真実なお方で、親子関係に問題があったとしても、なお私たちを守って(ヨブ38:8-11)、今に至るまで導いてくださいました(Ⅰコリント10:13)。
- この地上での親子関係が難しいものであるとしても、私たちは救いに与ったときに、天の父なる神様との親子関係をいただきました(ローマ8:15)。その時に、私たちはこの地上にあっても素晴らしい親子の関係を持つことができます。
- 主にある親子関係とは、子どもたちが主にあって父母を敬うこと(エペソ6:1-3)、そして父親が主の教育と訓戒によって子どもを育てることです(エペソ6:4)。父が子に残すものとは、何かの財産ではなくて生き方のお手本です。そして神様にある永遠を子どもたちに手渡すことができるとすれば、それは何と素晴らしいことでしょう。
三、
私たちは天の父なる神様がここまで私たちを養い、守り、導いて下さったことを覚えます。そしてその中で地上での父を与えて下さった、そのことを思うときに、様々な感情があるとしても私たちは主にある愛で地上での父を愛し、敬うことができます。それが救いの初穂としての私たちに神様が願っておられることなのです(ヤコブ1:17-18)。
出エジプト#9~不信仰の結果
民数記13-14章
一、
神様はイスラエルの民が金の子牛によってその不信仰を示した時にさえ、その罪をお赦しになりましたが、民の不信仰はついにカナン入国の最初の機会を目前にして、あまりにも大きな裁きを招くことになりました。
二、
イスラエルの民はシナイの地を北上して、カナンの地をうかがうところまで来ました。そこで神様はモーセに、斥候を遣わしてカナンの地を探るように命じられました(13章1-3節)。
- モーセはその地をしっかりと探ってくるように命じました(13:17-20)。信仰とは現実逃避や猪突猛進ではありません。現実の中にあって、なおそこで働いて下さるお方を見上げ、信頼することです(詩篇121:1-2)。
- 彼らは約束の地を探り(13:21-24)、帰ってきました。彼らはその地が確かに神様が約束されたとおりの素晴らしい地であることを報告しましたが(13:25-27)、同時に敵が強すぎて、その地で自分たちが滅びてしまうとも語りました(13:31-33)。彼らはこれまで驚くべき奇蹟を見てきたにも関わらず、その奇蹟だけを見て、その奇蹟をなして下さったお方に信頼することをしていなかったのです。
- 彼らは不信仰を示し、エジプトに帰ろうとさえ言いました(14:1-3)。神様はあわれみのゆえに約束の地を与えることを取り消されませんでしたが、民は不信仰の結果として、40年間の放浪というあまりにも大きな代償を払うことになりました(14:35)。
三、
イスラエルの不信仰から、私たちは信仰を保ち続けることの大切さを学びます(ヘブル3:16-19)。そしてそのためには、まず神様が私たちに示して下さった、与えて下さった愛を思い起こすことです(黙示録2:2-5a)。そしてイエス様が私たちの弱さを知っておられること、このお方に委ね、信頼することが出来ることを覚えましょう(ヘブル4:14-16)。信仰こそが私たちを、今ある私たちから、神様が願っておられる私たちへと変えていくものなのです。
出エジプト#8~金の子牛
出エジプト記32章
一、
イスラエルの民はホレブの山で十戒をいただくという経験をしましたが、しかし早くもその不信仰を金の子牛という形で示してしまいました。
二、
モーセが神様から十戒をいただくためにホレブの山に登って、40日40夜が過ぎました。その時イスラエルの民は待つことができなくなり、アロンを脅して偶像を造らせました(1-3節)。
- イスラエルはこれまで数多くの驚くべき奇蹟を見せられていたにも関わらず、モーセが不在になっただけで、その不信仰を示してしまいました。信仰とは見て信じるものではなく、見ないで信じるものなのです(ヘブル11:1)。逆に見えるものこそが、私たちを神様から引き離すものなのです(Ⅰヨハネ2:16)。
- 民は偶像礼拝の結果、罪を犯し始めました(7節)。そして神様の激しい怒りを引き起こしました(9-10節)。しかしそれは、ただ悪を行ったからだけではなくて、まず神様がイスラエルを深く愛してくださったにもかかわらず、彼らが神様を捨てようとしたからでした。まことの神様だけが、私たちを愛し、私たちの将来に責任を負っていてくださるお方です(エレミヤ29:11)。このお方から私たちを引き離そうとするものは、何であれ偶像礼拝なのです(コロサイ3:5)。
- モーセはアロンを詰問しましたが、ここでアロンは弁解をし、嘘さえついてしまいました(22-24節)。罪を犯したときに必要なことは、取り繕いではありません。悔い改めること、それだけです(詩篇51:16-17)。
三、
神様の前に正しく歩む、それが私たちにとって一番良いことです。それは何かの難行苦行ではなくて、ただイエス様を見上げて歩む、シンプルなことです(Ⅱテモテ2:8)。その時に私たちは揺るがされることなく、いつも定まった状態にあることができます(詩篇57:5-7)。偶像に仕えるのではなく、主に信頼し堅く立って、今週も歩んでいきましょう。
聖霊に満たされて歩む
使徒の働き2章1-4節
一、
今日はペンテコステ、聖霊様が信じる者たちの上にお下りになって、教会が始まった日です。聖霊様に満たされるとき、私たちはどのような者とされるのでしょうか。
二、
旧約の時代には、律法が与えられていました。しかし律法は罪を示すものではあっても、その罪の性質を作り変えることはできませんでした。聖霊様による新生が私たちには必要だったのです。
- イエス様は復活されて後、弟子たちに多くのことを教えられましたが、そこでエルサレムにとどまって、聖霊のバプテスマを受けるように命じられました(使徒1:3-5)。聖霊のバプテスマこそ、新約の時代(ヨハネ1:17)の始まりを告げるものであり、そこで全ての信じる者に聖霊が内住されるという驚くべき恵みが与えられるようになったのです(ヘブル8:7-11)。
- 旧約聖書で「初穂の日」と呼ばれていた五旬節の日、信じる者たちの上に聖霊様が炎のような現れをもって下り、ひとりひとりを満たしてくださいました(使徒2:1-4)。その時、彼らは大胆に、力強く福音を語り始めました。聖霊様は弱い私たちを燃やし、力を与え、大胆に福音を証しさせてくださるのです(使徒4:8-12)。
- 聖霊様に満たされるとき、私たちは内側から(ヨハネ14:16-17)変えられ、ますますイエス様の内にとどまっていきます(Ⅰヨハネ2:27)。聖霊様の現れはひとりひとり違うものかもしれませんし、それは問題ではありませんが(Ⅰコリント12:7-13)、日々の歩みの中に聖霊様に満たされて、そして委ねて歩むこと、そのことが大切です。
三、
このペンテコステの日、私たちは今一度聖霊様に満たされることを求めていきましょう。初代教会の人々がそうであったように、私たちも聖霊様によって満たされ、力をいただき、心燃やされて歩みましょう。聖霊様はこれまでも、そしてこれからも私たちを導いてくださいます。
出エジプト#7~十戒
出エジプト記19-20章
一、
シナイ半島でマナの養いを受けたイスラエルは、ホレブの山へと導かれました。神様はそのところで、十戒をお授けになりました。
二、
神様はまずイスラエルに、神様がここまで導いて下さったことを思い起こすようにと語られました(19章3-4節)。そしてイスラエルを神の民とするという約束をお告げになり(19章5-6a節)、十の戒めをお与えになりました。
- まず最初に、神様だけがまことの神であり、主であることを語られました(20章1-2節)。そして他に神が存在してはならないこと(3節)、いかなる偶像も造ってはならないことを命じられました(4-6節)。私たちが讃美を捧げることの出来るお方、そして讃美を受けるのにふさわしいお方はイエス様ただひとりです。このお方こそが私たちの期待を裏切ることなく、これまでもそしてこれからも私たちの力強い主でいて下さるお方です。
- 次に、主の御名を重んじること(7節)、安息日を守ることを命じられました(8-11節)。私たちはイエス様の名によって救われ、集められた人々です。それゆえいつもイエス様の名の下にある者として自らを吟味しなければいけません。また聖日を重んじ、私たちの時間から取り分けてお捧げすることを忘れてはいけません。それは行いの問題ではなく、私たちの神様への心です(申命記5:15)。
- 最後に、私たちの人間関係の大原則について命じられました(12-17節)。私たちは神様の恵みによって救われて、その中を生かされています。そしてそれは周りの人々にも神様の恵みを証しする生き方になるものです。
三、
神様はモーセを通してイスラエルに十戒をお与えになりました。それは十戒を通して神様の基準を知り、神様にその思いが向くためでした(ガラテヤ3:23-24)。私たちも御言葉を知るときに、束縛されるのでなく、むしろますます自由にされていきます(詩篇119:105)。御言葉の中に自分を浸し、主にある本当の自由をいただいて、歩んでいきましょう。