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    2009/5/17 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#6~マナの養い
    出エジプト記16章
    一、
     イスラエルは紅海を渡った後で、カナンへの最短距離を取らずにシナイ半島の南、荒野へと向かいました。それは神様がイスラエルの民を試みるためで、その結果、彼らの心の中にあるものが明らかになるためでした(申命記8:2)。
     
    二、
     イスラエルの民が荒野に入ったとき、彼らは食物のことでつぶやきました。彼らは神様に信頼することをせずに、エジプトを懐かしみさえすることで、その不信仰を示しました(1-3節)。しかし神様は真実なお方で、イスラエルに対して天からのパン、マナによる養いを約束なさいました(4-5節)。
    1. このマナは、日々の神様からの養いを意味しています。私たちは日々の霊的な養いを、神様の御言葉からいただく必要があるのです。そしてそれは何かの苦行ではなく、実は私たちの魂に甘い経験なのです(詩篇19:7-10)。
    2. 神様は日々マナを与えて下さいましたが、毎日集めること、古いマナを取っておくことがないように命じられました(11-18節)。ある人々がそれを聞かずに翌日まで取っておくと、なんとそれは悪臭を放ちました(19-20節)。神様による日々の養いを拒む不信仰は、神様から私たちを逸らせ、そしてキリストの香りではなくて、私たちの悪臭を漂わせる不従順にさえつながりかねないのです。
    3. 私たちは、日々新しい養いをいただく必要があります。日々私たちは御言葉によって養いを受け、そして自分自身を神様の御思いに合わせる、調整する必要があるのです。その時、私たちは神様の最高を為すのです。
     
    三、
     神様は、このマナの養いを40年間絶えることなく、イスラエルの民にお与えになりました。この養いは日々新しく、そして荒野での歩みの間、絶えることがありませんでした。私たちもこの地上で魂に飢えや渇きを覚えることがあるかもしれません。しかし神様は日ごとのマナを既に約束して下さっています。イスラエルの民と同様に、私たちも日々御言葉の糧をいただいて歩むとき、乏しいことがなく、主の真実を経験し続けることができるのです(詩篇100:5)。

    2009/5/10 母の日礼拝メッセージ

    愛の形
    エペソ書5章21節
    ヘホ・ベネディクト師
    一、偽りの愛の形
     私たちは「愛される」存在として造られた。しかし私たちは愛を与え損なうことがあるし、また受け損なうことがある。
     私たちには「こうすることで愛されていると感じる」形がある。その形は個人によって異なる。
    1. 贈り物が愛の形である人
    2. スキンシップ/フィジカルコンタクトが愛の形である人
    3. 言葉/コミュニケーションが愛の形である人
     小さい頃に愛を十分に受けた人は、大きくなっても愛をいろんな形を通して受け取ることができる。しかし小さい頃に愛を十分に受けなかった人は、特定の形で愛を受け取ることに固執する。親子関係、特に夫婦関係の中で偽りの愛の形が暗黙の要求になる。
    愛してくれるなら → お金を使ってくれるはず
             → 一緒にいてくれるはず
             → ~をしてくれるはず etc.
     
    二、聖書が語る愛の形
     Ⅰコリント13 → 愛の本質について語るが、外形的なことについては語らない。外形的には、様々な形で表現される。
     良くない親の下で育った子であったとしても、神様はもう一度その与えられなかった愛を与えて下さる。もしそうでなければ、愛は釣り合いのとれない者同士のシーソーゲームになってしまう。そこで十字架の仲裁が必要になる。イエス様が真ん中に立って下さって、重しとなって安定させて下さる必要がある。
     愛の形が私たちの偶像になってしまう。偶像の前で私たちはひれ伏してしまう。むしろイエス様が真ん中に来て下さることが必要。十字架に自分の愛の形を捨てて、そしてイエス様によって再生させていただく。
     
    三、具体例
    1. 自分の愛の形を認識する。
    2. 素直に相手に伝える。
    3. 最終的には、神様が満たし手であることを覚える。その時に私たちは楽にされる。
     エペソ5:21
     母親がまずたくさんの愛が必要。

    2009/5/3 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#5~紅海を渡る
    出エジプト記14章
    一、
     イスラエルの民はいよいよエジプトを出てカナンの地への旅を始めました。しかしその前に、エジプトから完全な解放を得る必要があったのです。
     
    二、
     イスラエルがエジプトを出てカナンに向かうとき、主はモーセに紅海の手前で宿営するように命じられました(1-3節)。私たちはしばしば災いがないことを願います。しかしイエス様が願っておられることは、私たちが患難から取り去られることではなくて、その中で守られることでした(ヨハネ17:14-15)。
    1. エジプトはイスラエルが出て行った後で考えを変えて(5節)、再びイスラエルを捕らえようと出てきました。その時イスラエルの人々はつぶやき、エジプトにいた方がよかったとさえ言いました(10-12節)。
      →しかし主のご計画は、私たちがエジプトにとどまる限り成就することはありません。私たちの受け継ぐ分は、エジプトには決してないのです。
    2. モーセは民に、主が戦って下さること、それゆえ恐れてはならないことを語りました(13-14節)。
      →信仰とは、信頼を神様に置くという私たちの自発的な決断、意志です。その時に私たちは揺るがされることがありません(詩篇125:1)。
    3. 主は不思議な方法でイスラエルを守り、紅海の水を分けて道をもうけ(19-21節)、エジプトの手から逃れさせてくださいました。そしてイスラエルが紅海を渡った後で、エジプトの全軍勢は水に飲まれてしまいました(26-29節)。
      →それは驚くべき奇蹟でしたが、イスラエルを救い出したのは奇蹟ではなく、それをなして下さった主でした。主がイスラエルを守られたのです。
     
    三、
     私たちも過去に訣別するために、あるいは紅海を渡る経験を通らされることがあるかもしれません。しかしそこで私たちは主に信頼すること、主が偉大なお方であること、そしてエジプトに完全に訣別することを学びます。主に信頼して、新しい出発をいただいた者であることを覚えて、歩んでいきましょう。