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    2009/4/26 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#4~過越、出エジプト
    出エジプト記12章
    一、
     今日は出エジプトの物語の4番目、過越と出エジプトです。どれほどまでに過去の束縛が重いものだとしても、神様は必ず私たちに解放を与えてくださいます。
     
    二、
     神様はモーセとアロンに、出エジプトの月を年の初めの月とするように命じられました(1節)。神様は確かに新しいことをされるお方で、その時にもはや過去は関係がありません(イザヤ43:18-19)。
    1. まず神様は犠牲のために子羊を用意するように命じられました(5-7節)。それは私たちは自分で自分を贖うことができないこと(詩篇49:8-9)、神の小羊の血潮によってのみ私たちが贖い出されること(Ⅰペテロ1:18-19)を、私たちに教えるためでした。
    2. 次に神様は、種を入れないパンでこの過越と出エジプトを覚えるように命じられました(17節)。私たちは神様に捧げられるべき新しい粉であるにもかかわらず、しばしば神様への純粋さを失ってしまって、パン種によって自らを見栄えよく整えてしまうことがあります。そうではなく、いつも神様の前に純粋さを保たなければなりません(Ⅰコリント5:7-8)。主の真実(Ⅱテモテ2:13)を、いつも心に覚えましょう。
    3. 過越の、神様はエジプトに来られて、自らの裁きを執行されました。それは全ての人間、家畜の初子が打たれるというあまりにも大きな裁きでした(29-30節)。そしてその結果、パロはイスラエルの民をエジプトから追い出して、ここにイスラエルの民はエジプトを出たのでした(40-42節)。
     
    三、
     イスラエルはここにエジプトを連れ出されました。神様は確かにご自分の約束を覚えていて、そしてイスラエルの民を解放してくださいました。それは私たちも同じです(ローマ8:1-2)。いろいろあったとしても、今が新しい出発です(イザヤ43:1-3a)。それゆえ私たちは過去から贖われ、連れ出された者で、日々主の恵みをいただいて歩む人々(哀歌3:22-23a)なのです。

    2009/4/19 聖日礼拝メッセージ

    出エジプト#3~エジプトへの裁き
    出エジプト記5-10章
    一、
     いよいよ出エジプトの物語も3番目、エジプトへの神様のさばきに入ります。神様はご自分の民を特別に扱われ、あらゆる束縛を打ち砕いて、解放して下さるのです。
     
    二、
     モーセはパロのところに行き、イスラエルの民を解放するように願いました。しかしパロは心をかたくなにして、ますますイスラエルの民を苦しめました。
    1. イスラエルの民がモーセに反抗したとき(5章20-21節)、モーセは主に正直にすべての思いを委ねました。その時神様はご自分の計画が確かにあること、そしてやがてそれを私たちが見ることをお語りになりました(6章1節)。神様のご計画はかならず最善の時に実現します(伝道者3:11a)。
    2. パロの心がかたくなになったのは、そのことを用いて神様がご自分の不思議としるしをお現しになるためでした(7章3-5節)。神様はまず九つの災いをもってエジプトの地と人々を打たれました。エジプト人たちは偶像礼拝者で、まことの神様の栄光を空しいものにおとしめてしまっていましたが(ローマ1:20-23)、神様はそれらの偶像の上に裁きを下して、ご自分だけがまことの神であることをお示しになりました。
    3. エジプトの人々は頑固で罪を悔い改めようとはせず、裁きを招き続けましたが、それとは対照的にイスラエルの人々の上には神様の不思議な守りがありました。主だけがまことの神、私たちの光で(ヨハネ1:1-5)、この方と共に歩むときに、私たちは暗いところを歩むことはありません。
     
    三、
     神様はエジプトへの裁きの中で、ご自分だけが神であること、偶像は偶像にしか過ぎないことをお示しになりました。いろんな事が起こる中で、それが神様を知らない人々にとっては裁きであるとしても、私たちにとってはすべてが神様のご計画の中にあることで、その時に神様から私たちを引き離すものは何もありません(ローマ8:35-39)。世のものが揺り動かされている今の時代、神様に私たちの信頼をますますしっかりと置いて、進んで行きましょう。

    2009/4/12 イースター礼拝メッセージ

    あなたのために祈りました
    ルカ22章32節
    猪尾 悦二師
     
     シモン・ペテロは、自分のことを、イエス様の一番弟子だと思っていました。どこまでも、イエス様に従って行こうと決心していました。人は誰でも、問題に直面する時までは、元気なのです。「覚悟はできております(22:32)」。なんと力強い、格好良い言葉でしょうか。そのような彼に、イエス様は、水を差すような言葉を言いました。「あなたは、三度、わたしを知らないと言います(22:34)」。
     ペテロは、まさか私が?と思いました。自分だけは、大丈夫だと信じていました。ところが、ペテロは、イエス様のことを、三度知らないと言ってしまいました(22:54-62)。彼は、外に出て、激しく泣いた。
     ペテロは、信仰を、完全に失ってしまったのでしょうか。そうではありません。その後の彼の人生をみれば、わかります。力強いイエス様の証人になりました。
    1. 誰でも、弱さを持っている。
      彼は、恐れから、イエス様を否定しました。このことは、誰にでも、起こることです。私たちは、心に、恐れを持ちやすい者です。
    2. 誰にでも、試練は、訪れる。
      小林富次郎(ライオンの創始者)
    3. 誰にでも、回復のときがある。 
      ヨハネ21:1-3、「私は漁に行く」。何もとれなかった。

     

    [復活の主イエス様の偉大な働き]

     ペテロの回復。素晴らしいカウンセラー、イエス様、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」。食事の交わりで、リラックスさせるイエス様

    1. 新しい出発をさせてくださる主
       ペテロは、三回、イエス様を否定しました。イエス様は、ここで、「ヨハネの子シモン」と三回呼んで、語りかけています。ペテロの最初の召命の時も、同じ呼びかけをしました(ヨハネ1:42)。イエス様は、もう一度、立ち上がらせたいという、強い思いを持っています。
    2. 愛の関係を大切にされる主
       「わたしを愛しますか。」という問いかけは、私たちとイエス様の関係が、単なる主従関係ではなく、愛の関係であることを示しています。ペテロは、イエス様を心から愛していました。
       イエス様は、最初の二回は、アガパオー(神の愛)という言葉で、質問しました。それに対して、ペテロは、フィレオー(友人の愛)という言葉で答えました。しかし、三回目は、イエス様もフィレオーという言葉で質問しました。これは一体どうしたことでしょう。
       イエス様は、永遠に変わらない神の愛を持っておられる方ですが、私たちの持っている愛を決してないがしろにはされないのです。「私は、イエス様を愛します」と大胆に言うことができるのです。
    3. 驚くべき犠牲を払われる主
       驚くべきことに、全能の主は、ペテロの回復のために、福音書の一章を費やしました。この章だけで、何回、シモン・ペテロの名が出て来るでしょう。たった一人であっても、見過ごしにされないイエス様の心が現れています。
     
    [イエス様のとりなしの祈り] 
     「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(22:32)」
    1. 祈ることの重要性
    2. あなたという存在の重要性
    3. 人を助けることの重要性

     イエス様の最大の関心事は、「あなた」という存在です。

    2009/4/5 受難週礼拝メッセージ

    すべてが完了した
    ヨハネ福音書19章30節
    一、
     今日から受難週です。イエス様が私たちのためにしてくださった十字架を覚えるとき、そこにあるのは感謝です。そしてイエス様は十字架上ですべての御わざを完成して(完了して)くださいました。
     
    二、
     イエス様は十字架上ですべての御わざを完了してくださいました。救いの御わざは既に完了していて、付け加えることはないのです。
    1. 十字架とは何でしょうか。それはまず私たちの死です(ピリピ3:10-11)。イエス様の死とは単に2000年前の出来事ではありません。信仰をもって受け取るときに、私たちも十字架上の死を共にするのです。その時に私たちの過去はすべて精算され、解放を受け取るのです。
    2. 私たちの過去は清算されました。それは完全かつ最終的なものです(イザヤ43:25)。それは私たちがイエス様の十字架を受け入れたときに、私たちも十字架上に死んだからです。私たちがすべきことはあきらめではなくまた自己憐憫でもなく、イエス様の元に立ち返ることです。そこに過去のすべてからの解放、そして新しい出発があります(Ⅱコリント5:17)。
    3. そしてイエス様の十字架に葬られたのは、良くなかった過去だけではなく、良かった過去も含むすべてです。この世で何かを得ていたとしても、それが十字架に代わる私たちのアイデンティティとなってはいけません(ピリピ3:7-9)。
     
    三、
     世の中には数多くの矛盾、不条理があります。しかし一番の不条理は、罪なき神のひとり子が私たちの罪を背負って十字架上に死んで下さったことです。そしてそのことを通して、すべては神様のご栄光に変えられます。それが私たちの勝利です。この地上の歩みでどんなことがあるとしても、私たちにとって全ては十字架上で完了されています。罪の赦し、過去からの解放、永遠の命、私たちの勝利と栄光、全ては十字架の上で完了されているのです。過去ではなく十字架の向こうにある栄光を見て、この受難週を歩んでいきましょう。