出エジプト#2~モーセの召命
出エジプト記3-4章
一、
今日は出エジプトの物語の2番目、モーセの召命です。モーセはエジプトの地から逃れてのちミデヤンの地に住み着き、そこで家庭を持ち、40年間を送りました。もはや人間的な視点では神様の召命はなくなってしまったかのように思われた時に、神様の召命がありました。
二、
ある時モーセがホレブの山に来たとき、柴が燃えていました。その柴は神様の現れでした(3章4-6節)。そこで神様はイスラエルの民を忘れてはおられないこと、彼らの救いのためにモーセを召しておられることをお語りになりました(7-10節)。主は常に真実なお方です(Ⅱテモテ2:11-13)。
- モーセが神様にその名前を聞いたとき、神様はご自分を「わたしは『わたしはある』という者である」とお語りになりました(13-14節)。
→私たちは生かされることによって存在しているものです。しかし私たちの神様は誰かに作られたようなそんな頼りないものではなく、全てが始まる前から在って在られたお方で、そのお方が私たちを造り、覚えてくださっているのです(イザヤ44:21)。
- モーセは自分が口べたであるとして、神様の召命に抵抗しました(4章10節)。ここで神様は御わざをなさるのは神様ご自身であること、私たちはその器に過ぎないことをお語りになりました(11-12節)。
→私たちが能力のない者だとしても、神様が用いてくださるのです。
- しかし召命に応えたモーセがエジプトに下る途中、神様は割礼のことでモーセを殺そうとされました(24-26節)。
→神様は愛なるお方ですが、同時に義なるお方です。神様はご自分の義について、妥協されることはないのです。
三、
こうしてモーセがいよいよ神様の務めに立つ時が来ました。私たちが不完全で能力が足りないとしても、神様こそが全能なるお方で、このお方が私たちを愛し、守り、導いてくださっています。ここに私たちの信頼があるのです。
出エジプト#1~モーセの誕生
出エジプト記1-2章
一、
今週からしばらく、「出エジプト~約束の地への旅」ということで、聖書から見ていきたいと思います。イスラエルの出エジプトから約束の地への歩みは、私たちに多くのことを教えているのです(ローマ15:4)。
二、
ヤコブの子どもたちがエジプトに移り住んで後、イスラエルの民はエジプトの地で多くなりましたが、その地で奴隷にされてしまいました。
- しかし神様はイスラエルの民を忘れてはおられず、むしろ彼らを解放するためにモーセを起こされました。モーセはレビの家系に生まれましたが、不思議な方法でパロの娘の子とされ、エジプトの王子として最高の教育を受けました。それは考えられる限り最高の備えでした(使徒7:19-22)。
→神様の働きの備えは、しばしばこの世の中でなされます。私たちはあらゆることに忠実であることが求められているのです(ルカ16:11)。
- モーセは人間的な状況では完全に準備された状態にされましたが、しかし神様はそのようなモーセをお用いにはなりませんでした。かえってミデヤンの地に追いやり、そこで肉の部分、自我を削られました。またそこで、自らが地上では寄留者にしか過ぎないことを悟らせなさいました(ヘブル11:13-16)。
→私たちは私たち自身ではなく、私たちの内におられるお方の栄光を現す必要があるのです(Ⅱコリント4:5-7)。
- 時が至って神様はイスラエルの民を救う計画を動かし始められました。神様のタイムテーブルは、モーセの気づかないところで進行していたのです。
→イエス様も、神様のご計画は私たちの知らないところで進んでいること、私たちはただそれを収穫するだけであることをお語りになりました(マタイ4:26-29)。
三、
いろんなことがあったとしても、神様は私たちのことを決して忘れておられません。全ては弱い私たちの内に、神様のご栄光が現れるためです(Ⅱコリント4:6-11)。このお方に信頼して、そして期待して進もうではありませんか。
救いの確信
Ⅰペテロ書1章8-9節
一、
私たちの救いには、確信があります。そしてその確信は私たちに揺るがない、また尽きることのない喜びを与えるのです。
二、
この世の中には多くの楽しみがあります。しかしそれらが本当の満たしを与えないことは、旧約のソロモン王が語ったことでもありました(伝道者2:10-11)。
- しかしイエス様は、イエス様ご自身が私たちを満たして、憩わせてくださるとおっしゃいました(マタイ11:28)。
→イエス様のくびきは、見た目には華やかではないかもしれませんが、しかし一番軽いくびきで、そこに私たちは安息を得るのです。
- イエス様が私たちのくびきを負うてくださいます。ここに感謝と救いの確信があります。十字架上でイエス様は「完了した」とおっしゃいましたが、確かに十字架上で私たちの全ての過去、重荷は精算されています。私たちが悔い改めるときに、精算されない過去はないのです(Ⅰヨハネ1:9)。
→ですから失敗したときに私たちがなすべきことは、悔い改めです。自分を責めて、自己憐憫に浸ることではありません。
- その時、私たちの心に、本当の喜びがあります。神様はその時、私たちに喜びを着せてくださいます(詩篇30:11)。そしてその救いとは、揺らぐことがありません。それは、聖霊様が私たちの救いの保証でいてくださるからです(エペソ1:13)。
三、
私たちの信仰生活において、救いの確信はとても大切です。私たちの信仰生活とは、単に道徳的な生活をするとか、あるいは立派な心を持って生きるとかいうこと以上のことです。イエス様に過去の清算と救いをいただいた確信、そして喜び、そこからくる信頼、それによって日々生かされ歩むこと、それが私たちの信仰です。私たちの救いは聖霊様の保証によって揺らぐことがありません。そのことに確信を持って、今週も大胆に歩んでいきましょう。
シンプルな信仰
ルカ福音書10章38-42節
一、
今日はシンプルな信仰ということで、聖書から見ていきましょう。イエス様は、大切なことは多くはない、いや、一つだけだ、そうおっしゃいます。
二、
あるときイエス様は旅の途中で、ベタニヤの村に立ち寄られました。そこにはマルタとマリヤの姉妹が住んでいました。二人はイエス様を家にお迎えしましたが、二人の取った行動には大きな違いがありました。
- 姉のマルタはイエス様をおもてなししようとして、忙しく動き回りました。それ自体は良いことでしたが、しかしイエス様が本当に求めておられたことからは、すこしずれたものでした(ホセア6:6)。一方マリヤはただイエス様の語ることを聞いていただけでしたが、それこそがイエス様が求めておられたことでした(詩篇51:17)。
- マルタが間違っていたわけではありません。しかし私たちが救われ、また生かされるのは、行いによってではありません。まず主の愛にふれられて、そして主を求めることです。その時に聖書を読むことも(詩篇19:7-10)、祈ることも(詩篇27:4-6)、「行い」から、心からの喜びに変わります。
- 聖書の原則はシンプルです。まず神様を愛すること、そのときに人を愛することができます。マルタとマリヤにお会いになる前に、イエス様は「良きサマリヤ人のたとえ」をお話しになりました。ここでイエス様がおっしゃったことは、まず神様の動機によらなければ、私たちは本当の意味で人を愛することはできないということでした。確かに必要なことは多くはありません。いや、一つだけで、それは主を求めるということなのです。
三、
私たちは忙しい時代を生きています。しかしそのような時代だからこそ、大切なことを大切にすることが「大切に」なってきます。私たちが様々なことをする中でその一番の根底にあるのは何でしょうか。私たちはしばしば同時にマルタでありマリヤですけれども、マリヤの心をまず第一に選びたいと願います。主を求める、シンプルなことですが、それを第一にして歩んでいきましょう。