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    2008/12/28 年末礼拝メッセージ

    主の臨在を仰いで
    詩篇84:5-7
    一、
     今年のテーマは「主の臨在を慕い求めます」でした。確かに主の臨在の中を歩むときに、私たちはどんな境遇にあっても満ち足りた、また感謝にあふれた歩みをすることができるのです。
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    二、
     詩篇の作者はここで、幸いな人とは主から力をいただいている人だ、と語ります(5節)。世の人々は様々な方法で幸せを追求しますが、幸せの本当の鍵はただひとつ、神様から力をいただくことです。
    1. 主は私たちの弱いところにご自分の力を現してくださいます。それは私たちが誇らないためです(士師7:2)。また、本当に主が働いてくださるときに、人間的な力は問題ではありません(Ⅰサムエル14:6)。神様こそが私たちの力、私たちの受け継ぐ分です(詩篇73:6)。
    2. 私たちが神様の臨在を仰いでいるとき、私たちの内にある幸いはなくなることがありません。その時、涙の時があったとしても、そのことさえ喜びに変えられるのです(6節)。それは私たちが困難の向こうにある主の希望を見ているからです(ローマ5:2-5)。神様の愛、計画は永遠の昔から永遠の未来に及ぶもので(エレミヤ31:3)、そこに私たちの信頼があるのです。
    3. 主にあって歩むとき、私たちの歩みは力から力へと至る歩み、そして神様の御前にやがて出ることになる歩みです(7節)。その時にいただく義、私たちが試練を通り抜けていただく義こそ、本物の義です(黙示録7:13-14)。そしてそこに至る歩みは、地上を這うような歩みではなくて、なんと天かける歩みなのだ、と聖書は語ります(イザヤ40:31)。
     
    三、
     今年一年間、私たちは主の臨在を仰いで、主にあって素晴らしい歩みをすることができました。感謝です。主の臨在をいただいて歩むときに、私たちはどんな境遇にあっても満ち足りていて、主にある希望をもって歩むことができました。そして感謝なことに、これからも私たちはそのように歩み続けるのです。

    2008/12/21 第4アドベント礼拝メッセージ

    イエス・キリストの御降誕
    マタイ福音書1:18-2:12
    一、
     今日はいよいよ第四アドベント、そしてクリスマス祝会の日でもあります。イエス様の御降誕は、私たちにとってどのようなものなのでしょうか。
     
    二、
     イエス様の御降誕は、人間的には驚くべき方法、理解が困難でさえあるような方法でなされました(1:18-20)。しかしマリヤも、またヨセフもその中に神様の主権をみとめ、信仰によって受け止めました。確かに救い主の御降誕は、主の計画、熱心によってなされた御わざだったのです(イザヤ9:6-7)。
    1. イエス様がお生まれになったとき、東方から博士たちがイエス様にお目にかかろうとしてやってきました。しかし人々は救い主の誕生を歓迎せず、かえって恐れ、不安にさえ感じました(2:1-3)。自分が自分のボスである人々にとっては、救い主の到来は歓迎できることではなかったのです。
    2. イエス様の最初の御降誕は、人目を引きつける華やかさとは全く無縁のものでした(イザヤ53:2)。私たちはしばしば見た目の素晴らしさに引き寄せられてしまいますが、イエス様はすべての人が救いにあずかることができるように、あえて低い姿、卑しい身分を取って来てくださったのです。
    3. 博士たちには、自分の目を満足させてくれる対象、そのような場所を求めるのではなくて、ただ神様が招いておられる場所に行きたいという願い、思いがありました。その時、神様は特別な導きを与えて、博士たちがイエス様にお会いできるように、また礼拝できるようにしてくださいました。彼らはイエス様から何かをいただこうとして来たのではありませんでした。否、ただ礼拝を捧げに来ただけでした。しかしそこに、本当の喜びがあったのです(2:10-11)。
     
    三、
     東方の博士たちがイエス様を礼拝したとき、そこには喜びがありました。一番大切なことは、神様に何かを求めるのではなくて、まず私たちが神様の前に礼拝をお捧げすることです。神が人となってくださった、私たちの王が来られた、このことを今一度覚えて、イエス様を私たちの心にお迎えしましょう。

    2008/12/14 第3アドベント礼拝メッセージ

    私たちの仲裁者
    ヨブ記16:19-21
    一、
     今日は第三アドベントです。クリスマスにイエス様が来られたのは、実はそれは旧約の人々が求めて得られなかったもの、神様と人間との間の仲裁者としての役割を果たしてくださるためでもありました。
     
    二、
     聖書の中にヨブという人がでてきます。彼は神様の前に正しく歩み、豊かに祝福されていた人でした。しかし神様が許されたとき、試練が彼を襲い、彼の友人たちは彼に罪があったのだと責めました。
    1. ヨブは自分は正しいと抗弁しました。しかし人間が自分の正しさをいくら主張しようとしても、それを絶対者なる神様の前に申し立てることはできません(ヨブ9:32-33)。私たちは神様の前には被造物にしか過ぎず、しかも罪人でさえあるのです。
    2. ヨブは祈り、叫ぶ中に、不思議な事を語りました。天に彼の証人となってくださる方がおられること、そしてその方が彼のために取りなしをしてくださるということです(ヨブ16:19-21)。私たちは不完全ですが、その方が私たちをいつも取りなして、保証しさえしてくださるのです。何という幸い、何という恵みでしょう。
    3. そして不思議な事に、その方のことをヨブは「人の子」と呼びました。イエス様は神の御子なる方であるにも関わらず、ご自分のことを「人の子」と言われ、そして私たちを友とさえ呼んでくださいました(ヨハネ14:14-15)。イエス様は私たちを親しく思ってくださり、そしてそのためにあがないの御わざをなしてくださったのです(ヘブル9:14-15)。
     
    三、
     旧約の人々が待ち望んだ神と人間との間の仲裁者なるお方の希望は、イエス様によって成就しました(Ⅰテモテ2:5-6)。イエス様が私たちの保証人でいてくださるとき、私たちには確信があります(詩篇27:1)。アドベントのこの季節、私たちの取りなし手なるイエス様が来てくださったこと、日々この方と共に歩んでいることを覚えて、クリスマスに向けて心備えていきましょう。

    2008/12/7 第2アドベント礼拝メッセージ

    やがて帰ってこられる主
    黙示録22:20
    一、
     今日は第二アドベントです。イエス様が最初に地上に来られたときは、天の栄光を捨て、低い姿を取って馬小屋の中に生まれてくださいました。しかし再び帰ってこられるときには、王の王、主の主として、すべての力と栄光を携えて帰ってこられます。
     
    二、
     イエス様が天に帰られたとき、弟子たちの前に御使いたちが現れて、再びイエス様が帰ってこられることを予告しました(使徒1:10-11)。確かに主は再び来られるのです。
    1. 主の再臨は聖書が語る大切な教えのひとつです。それによって私たちは慰められ、励まされます(Ⅰテサロニケ4:16-18)。また、主の前に正しく歩むことの大切さを再確認するのです(Ⅱペテロ3:11-13)。
    2. ある人々は「再臨などない」と言います(Ⅱペテロ3:3-4)。そして刹那的にさえ生きます。しかしこの世と世にあるものは過ぎ去るもので、私たちが永遠を託すべきものではありません。
    3. この地上にあっては患難があります。涙と悲しみがあります。しかし主にある永遠において、神様は私たちの涙をぬぐってくださいます(黙示録7:16-17)。主こそが約束されたダビデの子孫、輝く明けの明星です(黙示録22:16-17)。そこに私たちの慰め、希望、確信があるのです。
     
    三、
     旧約の時代、多くの聖徒たちがやがて来られる救い主の到来を待ち望みました。そして初代教会のクリスチャンも、「マラナ・タ(主よ来てください)」と言って、イエス様の再臨を待ち望みました(Ⅰコリント16:22)。暗闇に明けの明星が輝くとき、夜明けがそこまで来ているように、イエス様の再臨は確かに遠くないところまで来ているのです。主は私たちに勇敢であるようにとおっしゃいました(ヨハネ16:33)。またパウロ先生も堅く立って歩むようにと励ましています(Ⅰコリント15:58)。アドベントのこのとき、主の再臨の約束(黙示録22:20)に思いをはせて、クリスマスに心整えていきましょう。