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    2009/11/22 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#12~信仰の競走
    ヘブル書12章
    一、
     ヘブル書12章は、信仰の競走について語っていることで有名な章です。しかしここで競走とは、何かの優劣を争うことではありません。主に与えられた道のりを全うすること、信仰を保ち続けること、それだけです。
     
    二、
     まず初めに、多くの証人たちが天で私たちが信仰の道のりを完走することを待っていることが語られます(1-2節)。私たちの信仰の歩みは、確かに競走に似たところがあります。そしてその走りを全うするために必要なことは、ただイエス様への信仰です。
    1. そのために主の訓練を受け入れることが勧められます(3-7節)。クリスチャン生活がただ楽しいことだけ、簡単なことだけと考えるのは、正しい考えではありません。主は試練を通して私たちを訓練されることがあります(9-10節)。それは私たちの成長のためです(詩篇119:71)。
    2. 神様の取り扱いは、時には喜ばしく思われないことかもしれません(11節)。しかしそれは、主のご計画の中では必ず益とされることなのです(ローマ8:28)。その中で私たちは成長し、私たちに続く人々を励ますことができます(12-13節)。
    3. さらにヘブル書の著者は、平和ときよめられることを求めること(14節)、また妥協したり、堕落してはいけないこと(15-16節)を語ります。私たちが近づいているのは裁きの御座ではなく、天での祝会ですが(22-24節)、しかし私たちはそれゆえいっそう主の前におそれかしこむ心をもって、信仰の歩みを全うすることが求められているのです。確かに主は全てを焼き尽くす方であり(29節)、侮られる方ではありません。
     
    三、
     私たちは信仰の競走を走り通すこと、そのための鍵がイエス様であることを今ひとたび覚えたいと思います。神様が試練をお与えになるとき、脱出の道も備えてくださっています。その中で私たちは主の似姿へと変えられていきますから、しっかりと信仰を強くもって、与えられた競走を全うしていきましょう。

    2009/11/15 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#11b~信仰列伝・後半
    ヘブル書11章17-40節
    一、
     今日はヘブル書の11章後半です。私たちは信仰の歩みの大切さ、そしてただそれだけが神様が求めておられるものであることを知ります。
     
    二、
     11章の後半は、アブラハムの試練から始まります(17節)。イサクを捧げることはアブラハムにとって大きな信仰のチャレンジでしたが、神様がなされるであろう御わざに信頼を置いたとき、彼はイサクを死者の中から取り戻しました(18-19節)。死と復活、それは聖書の原則です(ヨハネ12:24)。
     そして旧約における信仰の勇者たちの歩みが語られます。
    1. まずイサク、ヤコブ、ヨセフについて語られます(20-22節)。人間的な能力、基準、願望は、神様の御わざをなすことができません。ただ神様のご計画だけがなります。そしてそれは信仰によるのです。
    2. モーセの歩みについて語られます(23-29節)。モーセの選んだ苦しみが語られますが、それは彼が地上のことよりもさらに大きな事、天で受ける報いを見ていたからでした(26節)。地上での事は大切ではありますが、天でやがて受け継ぐべき事と比較するときに、地上で得ることも、失うことも、第一のことではないのです。
    3. さらに信仰の人々の歩みについて語られます。その中には、士師や王たちのように華やかな活躍をした人々もいます(32-34節)。また預言者たちのように迫害され、苦しめられた人々もいます(35-38節)。しかしこの世での華やかさが、神様の基準ではありません。神様の基準はただ信仰で、そしてその点において、彼らはみな信仰の勇者で、信仰の模範を私たちに示しているのです(39-40節)。
     
    三、
     私たちの歩みの鍵、それは信仰です。私たちの歩みにはそれぞれ違いがあるかもしれません。しかしただ信仰によって歩むとき、それこそが勝利の歩みであり、神様が求めておられる歩みなのです。主に信頼を置いて、主の助けを経験しつつ、力強く今週も歩んでいきましょう(詩篇118:5-7)。

    2009/11/8 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#11a~信仰列伝・前半
    ヘブル書11章1-16節
    一、
     今日はヘブル書の11章前半です。信仰列伝として有名な箇所ですが、確かに彼らは今でも多くのことを、私たちに語りかけているのです。
     
    二、
     11章はまず、「信仰は望んでいる事柄を保証し」という有名な御言葉から始まります(1節)。私たちは救いの確信を投げ捨ててはいけません。しっかりと信仰を保つときに、主の恵みはいつも豊かにあるのです(詩篇32:10)。
    1. 昔の人々が称賛されたのは、行い(律法)によるものではなく、信仰によるものでした(2-3節)。救いの原則は、いつの時代でも、どこでも、ただ信仰によるのです。信仰がなくては、神様に喜ばれることはできません(6節)。その時に、神様と私たちとの関係は深められていくのです。
    2. アベル、エノク、ノアに続いて、アブラハムの歩みが語られます(8-9節)。どこに行くか分からないで歩み出したアブラハムの心中は、あるいは不安であったかもしれません。しかし彼は歩み出すという決断をしました。それが彼を「信仰の父」と呼ばれる者にしたのです。彼は自分の目的地を地上ではなくて天に定めていました(10節)。私たちは自分の宝を地上に置くのではなく(マタイ6:19-20)、神様が私たちの取り分であること(詩篇73:25-26)をもう一度しっかりと覚えるようにしましょう。
    3. アブラハムとサラの信仰から、多くの子孫が起こされました(11-12節)。私たちが次の世代に、周りに残すことができるもの、それは本物の信仰です。本物の信仰は、確かに周りを変えていく力があります。彼らのように、本当の目的地を知って、そこを目指す歩みは、素晴らしい証しなのです。
     
    三、
     そして本当の信仰の歩みは、本当の報い、神様が備えてくださっている報いにつながっています(14-16節)。私たちの信仰の歩みは、それだけの意味、価値があることなのです。私たちは地上にあっては旅人ですが、しかし主が共に歩み、励ましてくださっています。そのことに感謝して、今週もしっかりと、信仰の歩みを深めていきましょう。

    2009/11/1 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#10~手放してはならない確信
    ヘブル書10章
    一、
     今日はヘブル書の10章です。著者は私たちがしっかりと持つべき、そして保つべき確信について語ります。
     
    二、
     まず初めに、旧約の律法がイエス様の贖いの影にしか過ぎなかったこと、イエス様こそが救いの道であること(ヨハネ14:6)が、語られます(1-10節)。
    1. イエス様の御わざは完全なものです(11-18節)。イエス様は十字架で「完了した」と言われました(ヨハネ19:30)。私たちのいやし、解放、すべては十字架で既になされているのです(イザヤ53:4-5)。それゆえ私たちは大胆に神様の前に出ることができます(19-20節)。
    2. 次に真心から神様に近づくこと、しっかりと信仰を堅く保つこと、共に集まって信仰を励まし合うことが勧められます(22-25節)。全てが揺り動かされる時代、イエス様から目をそらさないことが私たちの信仰の歩みの秘訣です。嵐の中、イエス様に目をとめることでペテロはガリラヤ湖の上を歩きました(マタイ14:28-29)。また日曜礼拝を共に守ることは、単に神様に安息日を捧げること以上に、共に信仰を励まし合う、共に信仰を建て上げていくという意味があります。主は私たちが共に歩むことを願っておられるのです。
    3. 最後に、信仰からそれることへの警告(26-31節)と共に、初心に立ち返ること(32-34節)、そして信仰を堅く保って主の報いにあずかることが勧められます(37-39節)。主にある信仰の確信、それは私たちが決して手放してはならないものなのです。
     
    三、
     ヘブル書の著者はこの章で、私たちが救いの確信を手放してはならないことを語ります。必要なのは忍耐であることが語られますが、それは主の報いにつながる忍耐、また主の御手の中で必ず終わりが来る忍耐です。そしてそこには、大きな価値があります。主にある確信を手放すことなく、むしろますますしっかりと握って、後ろに下がるのではなく前に向かって、歩んでいきましょう。