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    2009/10/25 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#9~イエス様の完全な贖い
    ヘブル書9章
    一、
     今日はヘブル書の9章です。イエス様のただ一度の完全な贖いについて、著者は語ります。イエス様の贖いこそが真に完全なものであり、私たちにはそれだけで十分なのです。
     
    二、
     まず、旧約の律法の規定について、そして祭司たちの贖罪の規定について、著者は語ります(1-7節)。旧約の大祭司は罪の贖いをしましたが、それはあくまでもイエス様がまだ来られていないことを示す一時的なものにしか過ぎませんでした(8-10節)。
    1. しかし、イエス様が真の大祭司として来てくださいました(11-12節)。このイエス様の犠牲の血は、私たちの心を完全にきよめて神様に立ち返らせ、そして仕えさせるものです(13-14節)。
    2. イエス様の犠牲は完全なものです。それは私たちの状況、気分とは関係ありません。イエス様の犠牲によって神様が私たちを義とし(ローマ8:31-33)、それを信じるときに、光が私たちの内に輝くのです(ヨハネ1:5)。それゆえ私たちは主にある永遠の資産を受け継ぐ人々であることを、今ひとたび確認します(15節)。
    3. イエス様の犠牲は、遺言の執行にも例えることができます(16-22節)。それは神様の側からの一方的な恵みでした。そしてイエス様がその恵みの完成者、そして仲介者になってくださったのです(23-24節)。イエス様の御わざによって私たちの罪は完全にきよめられ(Ⅰヨハネ1:7)、神様の永遠にあって受け継ぐ栄光は、信じられないほどのものです(Ⅰペテロ1:6-7)。
     
    三、
     イエス様の贖いによって、私たちは完全な者とされています。地上での歩みの中ではさまざまなことがありますが、神様は善にして善をなされるお方、恵みに代えて恵みを与えてくださるお方です。このお方の贖いを、そして祝福を今ひとたび受け取って、信仰を強められて、今週も歩んでいきましょう。

    2009/10/18 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#8~新しい契約
    ヘブル書8章
    一、
     今日はヘブル書の8章です。イエス様の完全な大祭司職、そして古い契約にまさる新しい契約について、語り始められます。
     
    二、
     私たちの大祭司はイエス様です。それは人手による制度ではなくて、それこそが神様のご計画であり、成就なさったことでした(1節)。当時はモーセの律法にもとづいて大祭司が務めをしていましたが、それはイエス様の影にしか過ぎなかったのです(4-5節)。
    1. イエス様こそが真の大祭司、神と人との間の仲介者なるお方です(6節)。そしてこのお方によって、私たちは私たちの思いをこえるほどの祝福をいただきます(エペソ1:17-19)。
    2. 初めの契約(モーセ律法)は、新しい契約の予表にしか過ぎず、不完全なものでした(7-9節)。さまざまな律法はただ私たちの罪を教えるだけで、そのことによって私たちは罪を示されますが、救いを得ることにはつながらないのです。
    3. 救いの本質は行いではなく信仰です。すなわち私たちの心が作りかえられることです(10節)。それは人間的な道徳や倫理、修行や精進ではなく、聖霊様による刷新、十字架による救いです。そしてその救いを私たちは信仰によって受け取り、古い人を刷新することによって保ち続けるのです(ローマ12:2)。その時、私たちはもはや人手を介してではなく、直接に神様を知り、経験するのです(11節)。
     
    三、
     私たちはイエス様を通して新しい契約を与えられました。もはや古い契約は必要ありません(12節)。イエス様の救いこそが全ての過去を清算し、刷新し、新しい出発を与えるものです(Ⅱコリント5:17)。それは何一つ私たちの側の行い、立派さによるものではなく、ただ神様の恵みです。それゆえ私たちはただ感謝を捧げるのです。イエス様の内にとどまって、全ての良いものをしっかりと受け取って、今週も力強く歩んでいきましょう。

    2009/10/11 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#7~メルキゼデクの祭司職
    ヘブル書7章
    一、
     今日はヘブル書の7章です。イエス様こそが完全な大祭司であること、このお方によって、私たちは律法による不完全な救いに代えて、信仰による完全な救いを与えられたのです。
     
    二、
     ヘブル書の著者は7章で、創世記の祭司メルキゼデクとアブラハムの物語から語り始めます。
    1. イスラエルの先祖であったアブラハムは、サレム(後のエルサレム)の王であった祭司メルキゼデクから祝福を受けました。霊的な意味では、メルキゼデクはイエス様の大祭司職の型です(詩篇110:1-4)。そしてアブラハムがメルキゼデクに献げ物をし、祝福を受けたことは、レビ族の祭司職が一時的なものであること(Ⅰペテロ2:9)、イエス様の大祭司職こそが真の大祭司職であることを予表していたのです(4-10節)。
    2. イエス様がメルキゼデクにならって大祭司の職に就かれたことは、祭司職とセットとなる律法も変更されたことを意味します(11-13節)。すなわちモーセの律法はもはや効力をもたないのです。今や人手によらない、主による救いによって私たちは神様に近づくことを許されているのです(17-22節)。
    3. 今や私たちの大祭司であるイエス様は、不完全だったレビ系の祭司たちとは異なって、完全な罪の赦しと救い(Ⅰヨハネ1:7)を私たちに与えてくださいます(24-27節)。このお方こそが私たちのために立てられた大祭司です。私たちはただ信仰によってその救いを受け取るだけで、追加しての何かは必要ないのです。そしてそれこそが神様のご計画でした(28節)。
     
    三、
     ヘブル書の著者は、イエス様の救いのご計画、完全性を旧約の祭司職と比較して語ります。イエス様の御わざは、それだけで完全なものです。私たちは信仰でそれを受け取るだけです。ですからしっかりと十字架の救いをいただいて、それを手放すことのないようにしましょう。そこに私たちの全てがあるのです。

    2009/10/4 聖日礼拝メッセージ

    ヘブル書講解#6~警告と励まし
    ヘブル書6章
    一、
     今日はヘブル書の6章です。ヘブル書の著者はここで私たちに信仰の警告と励ましを語ります。
     
    二、
     まず初めに、基礎的な教理にとどまらないことが勧められます(1-3節)。信仰が弱ってしまうことがあるとしても、必要なことは主を見上げて前に進むことです。私たちの救いを開始し、継続し、建て上げていくのは、ただ主への信仰によります。そして以下の事柄が語られます。
    1. まず背教の危険性に対して、厳しい警告が語られます(4-8節)。しかしそれは、私たちが信仰から簡単に脱落してしまうからではありません。むしろ聖書は真に救いをいただいた私たちがもはや罪の中にとどまることができないことを語ります(Ⅰヨハネ3:9)。ただ私たちは、信仰から逸れたときに、弁解するのではなく、自己憐憫に浸るのではなく、悔い改めること(Ⅰヨハネ1:7)を、今ひとたび確認するのです。
    2. そして背教への警告以上に、私たちの上にある神様の素晴らしい計画と、その計画への確信が語られます(9-12節)。私たちの信仰には浮き沈みがあるかもしれませんが、しかしただ主を見上げて歩むこと、主が私たちを守っておられることへの信頼を保ち続けること、それが大切です。そしてただ主を見上げて歩み続けるのです(ピリピ3:12-14)。
    3. 最後に、主がご自分をさして誓い、私たちへの約束の保証をされたこと、そしてこのことがどれほどまでに大きな事で、私たちへの保証であるかということが語られます(13-19節)。主の約束はただ真実です。それは私たちにとって、大きな慰めであり、安心です。
     
    三、
     私たちは主の真実を知るときに、もはや世の荒波に吹き回されることはなく、しっかりと歩むことができます。それは時に忍耐を要求することかもしれませんが、しかしそれだけの価値があることなのです(Ⅱテモテ2:10-13)。主の真実に慰めと安心をいただいて、信仰の歩みを続けていきましょう。