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    2009/1/25 聖日礼拝メッセージ

    Ⅰテサロニケ書講解#2
    Ⅰテサロニケ書2章
    一、
     今日はⅠテサロニケ書の2章です。私たちは神様の御前に、共に歩む人々であり、お互いがこそが私たちの望み、喜び、誇りなのです。
     
    二、
     パウロ先生は、自分がテサロニケの町に来たときのことから語り始めます。パウロ先生は苦闘の中で大胆に福音を語りました。それはパウロ先生の中で神様に仕えること、神様をお喜ばせすることが動機にあったからこそのことでした(3-4節)。
    1. パウロ先生は愛のゆえに労苦し、苦闘し、自ら犠牲を払ってさえしてまで福音を伝えたことを語ります(7-10節)。私たちの動機、それは愛です。愛とは戒めさえも含むものですが(11-12節)、その中に神様は確かに働いてくださるのです。
    2. パウロ先生が福音を語ったとき、テサロニケの人々はそれを人間の言葉としてではなく、神様の言葉として受け入れました。そしてその時に、神様の言葉は彼らの中で生きて働きました(13節)。私たちがへりくだって、聖霊様によって御言葉を聞くとき、確かに御言葉は神の言葉として私たちの中に生き、働くのです(詩篇119:50)。
    3. パウロ先生はさらに、神様の主権について語ります(14-16節)。様々なことがあるとしても、私たちは神様の時、神様の御手に全てを委ねるのです。神様の偉大さは、人間の働きによって増し加えられたり、あるいは減少させられたりするようなものではありません。
     
    三、
     パウロ先生は最後に、再びテサロニケの人々と会いたいと願っていること、そしてお互いこそが主の前に、望み、喜び、誇りであることを語ります(19-20節)。教会とは建物ではなく、活動でもなく、同じ神の民とされているお互いのことです。そしてそのようにして主の前に共に歩み続けるときに、主は最善をなしてくださいます(ローマ8:28)。主が来られるときに、共に御前で喜び合うことができるように、主に導かれて共に歩んでいきましょう。

    2009/1/18 聖日礼拝メッセージ

    Ⅰテサロニケ書講解#1
    Ⅰテサロニケ書1章
    一、
     今日からしばらく、Ⅰテサロニケの手紙を見ていきたいと思います。パウロ先生がテサロニケのクリスチャンたちを励まして、またクリスチャン生活とは何か、ということについて語るメッセージです。
     
    二、
     世の中には立派な教えがたくさんあります。しかし私たちを本当の意味で教え、戒め、励まし、生かすのは、神様の御言葉以外にはありません(詩篇119:97-105)。
    1. パウロ先生はこの手紙を、テサロニケのクリスチャンたちへの挨拶から始めます(1-3節)。そしてその中で、彼らのことを日々の祈りの中に覚えて祈っていることを語ります。私たちは離れていてさえしても、共に歩む主の家族なのです。
    2. 次にパウロ先生は、福音が神様の力、聖霊の働きによるものであったことを語ります(4-5節)。福音とは真理であり、私たちを救うことができるものです(Ⅰコリント15:1-2)。私たちは福音の上に、たとえ困難の中にあるときでさえも、これこそが真理だと、確信を持って立つことができるのです。
    3. さらにパウロ先生はテサロニケのクリスチャンたちの歩みを「信者の模範」として称賛します(7-8節)。確かに彼らにも足りないところがあったかもしれませんが、神様に信頼する歩みを続けていること、これこそが信仰であり、それは今を生きる私たちも同じなのです。
     
    三、
     パウロ先生は最初のテサロニケ人への手紙を、挨拶と励ましから始めました。私たちも神様の前に足りないところばかりですが、しかしそのような私たちを神様は励ましてくださっているのです。もちろん足りないところがあるならば、私たちは努め励まなければなりません(Ⅰコリント9:24-27)。しかしまず、神様に与えられた命を生きること、そしてそれを続けることが、私たちの信仰の歩みであり、私たちの証しのスタートなのです。

    2009/1/11 聖日礼拝メッセージ

    主に導かれて
    ガラテヤ書5章25節
    一、
     私たちは今年、主のしてくださる素晴らしい御わざに期待しています。そしてそれを「共に」見たいと願っています。私たちは主に導かれて歩む「人々」なのです。
     
    二、
     私たちはこの世の何かではなく、聖霊様によって生かされている存在です(ガラテヤ5:25)。世のものは私たちを生かしません。それどころか、しばしば世の華やかさは私たちの心の闇を深くし、滅ぼしてさえしまいます。私たちが負うべきくびき、それは世の栄光ではなく、イエス様の十字架です(マタイ16:24-25)。その時に私たちの魂は安息を得、安らぐのです(マタイ11:28-30)。
    1. 私たちは個性豊かな、それぞれにユニークな人々ですが、しかし聖霊様によって一つとなるようにバプテスマされた人々です(Ⅰコリント12:12-13)。
    2. 主にあって私たちは召し出された人々ですが、それは聖霊様に導かれて共に歩むためです。それゆえ集まることを止めないで、いつも励まし合って、共に歩み続けるのです(ヘブル10:23-25)。
    3. 私たちの個性、また違いは、主にあってひとつの体を築くためです(Ⅰコリント12:14-20)。そこで私たちは、共に喜び、共に苦しみさえし、そして共に尊ばれるのです(Ⅰコリント12:21-27)。そして、そのようにして築き上げられる教会こそが、神様の良いものが解き放たれる場所、神様の命で満たされている場所なのです(エペソ1:22-23)。
     
    三、
     私たちは主にある教会として、御霊に生かされ、そして御霊によって共に導かれる教会として進んで行きたいと願います。イスラエルの民が主に導かれて歩んだときに、その歩みは全うされ(ネヘミヤ(9:19-21)、そして約束の地を勝ち取りました。この一年も、共に主の導きの中を教会として歩んでいきましょう。その時に私たちは主の御わざを、大収穫を見ることになるのです。

    2009/1/4 年初礼拝メッセージ

    主は私たちに大いなることをされた
    詩篇126篇

    一、
     今年のテーマは「主は私たちに大いなることをされた」です。確かに主は私たちに大きなことを「既に」してくださっているのです。

    二、
     ユダの人々は偶像礼拝の罪で国を滅ぼされ、バビロンに捕囚とされていました。しかし時が満ちてユダの地に帰ることを許されたとき、その喜びは「夢のよう」でさえありました(1節)。

    1. 主の回復の御わざはあまりにも素晴らしいので、そこには喜びの笑いさえありました(2節)。生きておられるお方、この方が私たちの上に計画をもっておられ、そしてすべてを相働かせて、益としてくださるのです(ローマ8:28)。
    2. 神様が最善をしてくださる、ここには二つの意味があります。ひとつは神様が最善をしてくださった、そのことを見て、感謝すること、そしてもうひとつは、仮に今が良い状況ではないとしても、やがてそれらを神様が最善へと変えてくださる、そのことに私たちの信頼を置くことです。信仰の試練があったとしても、それは神様からの称賛、栄誉につながるものなのです(Ⅰペテロ1:6-9)。
    3. 神様の最善を知っているとき、私たちは神様の前に祈ることができます。私たちは生きておられるお方に私たちの信頼を置き、願うことができるのです。それはイエス様が示された模範でもあります(ヘブル5:7)。その時、私たちは信仰の目でやがてくる大きな収穫を見ることができるのです(5-6節)。そしてそれは、必ず実現します(Ⅱコリント1:19-20)。

    三、
     私たちの労苦には必ず報いがあります。主にあってすべては益に変えられて、大きな収穫とされる時が来ます。涙と共に種をまくことがあったとしても、喜び、叫びながら、それも束を抱えるほどに刈り取るのだ、と神様は約束してくださっているのです。この方に私たちの信頼を置いて、今年一年間、主の大きな(既に備えられている!)御わざを見せていただいて、歩んでいきましょう。